変調・符号化#74
プリディストーション — 増幅器の非線形性を逆関数で打ち消す線形化技術
TWTAのAM/AM・AM/PM歪みを、増幅前の信号にあらかじめ逆特性をかけて打ち消すプリディストーション。Salehモデルから具体的な補償関数を導出し、アナログ/デジタル・適応型DPDの違いと、深宇宙機での採用トレードオフを数式で理解する。
前提知識: クライストロンとTWTA — 電子ビームで電波を高出力に増幅する送信管の物理、APSK — 高次変調と非線形増幅器を両立させる同心円配置
この回で学ぶこと
APSKの回では、TWTA(進行波管増幅器)のような非線形増幅器がAM-AM歪み(振幅圧縮)とAM-PM歪み(振幅に応じた余分な位相回転)を引き起こし、それをSalehモデルという有理関数で近似できることを見ました。クライストロンとTWTAの回では、この歪みが電子ビームのバンチングとシンクロニズム崩壊という物理過程そのものから生じており、効率のピークがまさにその歪みの強い飽和点付近にあるために、探査機の運用では「効率を取るか、線形性を取るか」というバックオフ量の最適化問題に直面することも確認しました。
この回では、この2つの回で「所与の性質」として扱ってきた非線形歪みを、今度は積極的に補償する技術であるプリディストーション(predistortion, 事前ひずみ補償)を扱います。アイデア自体は単純です。増幅器の非線形特性が分かっているなら、増幅する前の信号に、あらかじめその非線形性の「逆」をかけておけばよい。そうすれば、信号が増幅器を通り抜けたときに、ちょうど非線形性が打ち消し合って、全体としては線形な増幅が実現される、という発想です。この単純な逆関数の考え方を出発点に、Salehモデルを使って具体的な補償関数を数式で導出し、その上でアナログ回路で実装するかデジタル信号処理で実装するか、さらに増幅器の特性が経時変化・温度変化する現実にどう追従するか(適応型DPD)を見ていきます。最後に、この技術が実際にどれだけの効率改善をもたらすのか、そして深宇宙探査機搭載のTWTAでどこまで採用されているのかを、定量的に確認します。
直感的な導入
眼鏡のレンズを思い浮かべてください。近視の目は入ってくる光を本来のピントより手前で収束させてしまいます(目というレンズの「歪み」)。近視用の凹レンズは、目に入る前の光線にあらかじめ逆方向の屈折を与えておくことで、目のレンズを通過したあとにちょうど正しい位置でピントが合うようにします。凹レンズ単体は光を歪ませていますが、目のレンズと組み合わさった全体としては、歪みのない結像が得られます。
プリディストーションはこれと全く同じ発想を、増幅器の振幅・位相特性に対して行います。増幅器そのものの非線形性を取り除くことはできません(TWTAの電子ビーム物理は変えられません)。しかし、増幅器の手前に、増幅器の非線形性のちょうど逆の歪みを与える回路(プリディストータ, predistorter)を挿入すれば、「プリディストータの歪み」と「増幅器の歪み」が縦続接続で打ち消し合い、入口から出口まで見たシステム全体としては線形増幅器のように振る舞わせることができます。
この発想の利点は、増幅器自体をより線形な(そのぶん効率の低い)デバイスに置き換えるのではなく、安価で軽量な信号処理段を1つ追加するだけで、効率の高い非線形動作点のまま線形な入出力特性を得られるという点にあります。クライストロンとTWTAの回で見たように、TWTAの効率は飽和点付近で最大になります。プリディストーションは、その「おいしい」動作点により近づけたまま線形性の要求を満たすための、いわば橋渡しの技術です。
数式定式化1: 逆関数によるプリディストーションの基本原理
まず最も基本的な形で、この逆関数のアイデアを式にしておきましょう。増幅器の入出力特性を、実数値の関数 で表します( が入力、 が出力)。もし が単調で逆関数 が存在するなら、入力信号 を増幅器に直接入れる代わりに、まず
という前処理を施してから増幅器に入れます。すると増幅器の出力は
となり、増幅器を通過したあとの信号は、非線形な を経由したにもかかわらず、前処理前の にそのまま等しくなります。つまり合成写像 が恒等写像になることを利用して、増幅器の非線形性を打ち消しているわけです。
もちろん実際の送信機で扱う信号は、振幅と位相の両方を持つ複素包絡線 です。TWTAのような無記憶(メモリレス)非線形増幅器は、APSKの回で見た通り、振幅 にだけ依存するAM-AM特性 と、やはり振幅にだけ依存するAM-PM特性 という2つの実数値関数で特徴づけられ、出力は
と書けます。プリディストータは、この振幅方向・位相方向それぞれに対して「逆」をかける複素利得
を、入力信号の瞬時振幅 に応じて時々刻々かけ合わせる回路(あるいは処理)です。
ここで は振幅方向の補償(あとで導出します)、 は位相方向の事前回転(AM-PM歪みを打ち消すための、振幅に応じた位相の先回り補正)です。振幅・位相ともに瞬時振幅 だけの関数として与えられるのは、TWTAのAM-AM・AM-PMがどちらも瞬時振幅だけに依存する無記憶モデルだからです。
数式定式化2: Salehモデルからプリディストータの伝達関数を設計する
では実際に、Salehモデルを使って と を具体的に求めてみましょう。APSKの回で導入したSalehモデルのAM-AM・AM-PM特性を思い出すと、
でした。プリディストータは、入力振幅 を受け取ると、まず振幅を に変換してから増幅器に渡します。設計の目標は、増幅器を通過したあとの出力振幅が、入力振幅 に(飽和までは)比例するようにすることです。目標とする線形ゲインを とすると、求めたいのは
を満たす です。ここで の選び方には自由度がありますが、最も欲張った(=線形領域を増幅器の物理的な限界いっぱいまで引き伸ばす)選択は、増幅器の小信号ゲイン (振幅がゼロに近いところでの の極限値)を採用することです。この のもとで上の式を展開すると、
という についての2次方程式が得られます。これを解くと
の2つの根が出てきますが、 のとき (小振幅では補償が実質的に「何もしない」に近づく)という物理的に妥当な条件を満たすのは負符号の根だけです(正符号の根は で発散します)。したがって、Salehモデルに対するプリディストータの振幅特性は
という閉じた形で求まります。この式が実数値を持つためには、根号の中身が非負である必要があり、
という定義域の上限が現れます。これは偶然ではありません。Salehモデルの 自体を について微分して極大点を求めると、
となり、増幅器の出力振幅には物理的な天井(真の飽和出力) が存在します。プリディストータの目標出力 が、この天井 に達するのはちょうど のときであり、これは先ほど の定義域から出てきた上限と完全に一致します。つまりプリディストーションは、増幅器が物理的に出せる出力の限界を超えて何かを作り出す魔法ではなく、線形に振る舞う範囲を、増幅器が原理的に出力できる限界いっぱいまで押し広げる技術だ、ということが、この境界の一致から数式的に確認できます。それより先(定義域外の )は、どんな入力を与えても増幅器は原理的にそれ以上の出力を出せないので、プリディストーションでは救えません。
位相方向の補償も同様に組み立てられます。プリディストータを通過した信号の位相は で増幅器に入り、増幅器はそこにさらに を上乗せするので、出力位相が元の に一致するためには
であればよいことになります。つまり、増幅器が振幅 に対して実際に加えるであろう位相回転量をあらかじめ計算しておき、それとちょうど逆符号の位相を先回りして加えておく、という単純な構成です。以上をまとめると、Salehモデルに対するプリディストータの複素利得は
という具体的な形で設計できることになります。振幅・位相それぞれ1変数の関数として閉じた式(あるいは数値的に求めたルックアップテーブル)にできる点が、無記憶モデルを仮定することの実用上の利点です。
数式定式化3: アナログ方式とデジタル方式、そして「記憶」を持つ増幅器への拡張
ここまでの 、 は、原理的にはアナログ回路でも実装できます。実際、初期の衛星通信用TWTAでは、ダイオードの非線形I-V特性を利用したアナログプリディストータ(RF信号のエンベロープをダイオード検波し、その非線形応答でRFまたはIF段の利得・位相を直接制御する回路)が使われてきました。アナログ方式の利点は構成が単純で消費電力が小さいことですが、欠点として、・ の形状がハードウェアの回路定数(抵抗・ダイオード特性など)に固定的に縛られ、増幅器ごとの個体差や運用中の特性変化に細かく追従させることが難しいという制約があります。
これに対して**デジタルプリディストーション(DPD: Digital Predistortion)**は、ベースバンドのデジタル信号処理として を実現します。送信するシンボル列 に対して、D/A変換の直前で
を計算し、 をソフトウェアあるいはFPGA上のルックアップテーブル(LUT)や多項式係数として保持します。上で導いたような無記憶モデルに基づく振幅ルックアップテーブルは、DPDの最も単純な実装形態です。
ただし実際の広帯域デジタル変調(高いシンボルレート)を扱う増幅器では、出力が現在の入力振幅だけでなく過去の入力の履歴にも依存する「記憶効果(memory effect)」が無視できなくなります。これはTWTAの熱的な時定数やバイアス回路の周波数依存性などに起因し、Salehモデルのような無記憶モデルでは表現できません。この場合、DPDではメモリ多項式モデル(memory polynomial model)
のような、過去 サンプル分の履歴と振幅の 次項を組み合わせた級数展開が使われます。(現在のサンプルのみ)とすれば、これは無記憶モデル(前節までの を多項式で近似したもの)に帰着します。係数 は増幅器ごとに、あるいは運用中に、実測データから推定されます。
適応型DPDは、この係数 を運用中にリアルタイムで更新し続ける仕組みです。典型的な構成(間接学習アーキテクチャ, indirect learning architecture)では、増幅器の実際の出力信号の一部をダウンコンバート・A/D変換してフィードバックし、期待される線形出力(入力信号を目標ゲイン倍しただけのもの)との誤差
を計算します。この誤差を最小化するように、LMS(Least Mean Squares)則に似た更新式
( はステップサイズ、 は複素共役)で係数を逐次修正していきます。こうしておけば、増幅器の特性が経時劣化(電子ビームのカソード劣化など)や温度変化(軌道上での熱環境の変動、地上局のRF室内の温度ドリフトなど)によって に相当する実効的な非線形特性が少しずつ変化しても、DPDの係数がそれに追従し続け、常に最新の増幅器特性に対して最適な逆補償をかけ続けることができます。
実務での使われ方
バックオフ削減の定量的な意義。 クライストロンとTWTAの回で見たように、TWTAのDC-RF変換効率は飽和点付近で最大(代表的には50〜65%程度)になり、飽和点から離れる(バックオフを大きくする)ほど効率は低下します。プリディストーションなしで16APSK・32APSKのような振幅変動の大きい変調方式を、所定のスペクトルマスクとEVM(Error Vector Magnitude)要求を満たしながら送信しようとすると、出力バックオフ(OBO)としておおよそ4〜6dB程度を確保する必要があるのが一般的です。ここに前節の無記憶モデルLUT型、あるいはメモリ多項式型のプリディストータを挿入すると、同じスペクトルマスク・EVM要求を満たしたまま必要なOBOを2〜3dB程度圧縮できるのが典型的な効果です。この数dBの差は、増幅器をより飽和点に近い、より高効率な動作点で使えることを意味し、限られた太陽電池・バッテリー電力予算の中でより高い実効輻射電力(EIRP)を引き出せる、あるいは同じEIRPをより小さな電力予算・より軽量な電源系で達成できるという、探査機・衛星のシステム設計全体に波及する利得になります。DVB-S2の枠組みを準用するCCSDS 131.2-Bの高速テレメトリ規格でも、16APSK・32APSKのような高次変調を運用する際には送信系にリニアライザ(線形化器、プリディストータの実装形態の1つ)を組み込むことが標準的な前提とされています。
深宇宙探査機搭載TWTAでの採用状況。 一方で、深宇宙探査機に搭載されるTWTA自体にプリディストーションが組み込まれる例は、近地球の高速リンクに比べるとずっと限定的です。理由は主に2つあります。第一に、APSKの回でも確認した通り、深宇宙リンクの多くは電力制限領域にあり、BPSKやQPSK/OQPSKのような定包絡線に近い変調方式を使い続けています。定包絡線変調はそもそも振幅変動が小さいため、AM-AM・AM-PM歪みの影響を受けにくく、プリディストーションで得られる恩恵自体が小さくなります。第二に、探査機に搭載する適応型DPDは、フィードバック用の高速A/D変換器、係数更新用の演算資源、そして数年〜十数年に及ぶミッション期間中の放射線耐性・信頼性の確保など、実装コストと質量・消費電力の予算を大きく消費します。地上局(電力・冷却・保守要員に余裕がある)であれば適応型DPDのコストは相対的に許容しやすいのに対し、探査機側では「複雑な適応補償を積んでまで高次変調の効率を稼ぐ」よりも、「そもそも歪みに強い定包絡線変調を選び、必要なら地上で事前に特性評価した固定的な(非適応の)静的補償だけに留める」という設計判断が下されることが多いのが実情です。近地球の高速テレメトリミッションで16APSK・32APSKを使う場合でも、搭載機側は運用開始前の地上試験で個体ごとに特性評価した固定のルックアップテーブル型リニアライザを採用し、軌道上でのリアルタイム係数更新までは行わない、という設計が一般的です。フルの適応型DPDがむしろ普及しているのは、電力・体積の制約が緩い静止衛星の放送用トランスポンダや、地上のアップリンク局の送信系といった、地上・大型衛星側の設備においてです。
演習問題
- Salehモデルのパラメータが 、 で与えられているとします。目標ゲイン とするプリディストータの振幅特性 を用いて、入力振幅 に対する を求めなさい。さらにその値を に代入し、プリディストーションありの出力振幅が に一致することを確認しなさい。また、プリディストーションなしで をそのまま増幅器に入力した場合の出力振幅 を求め、両者を比較しなさい。
- 問1と同じパラメータ()について、(a) を で微分して極大値を与える と、そのときの飽和出力 を求めなさい。(b) 一方、 の定義域の上限 における目標出力 を計算しなさい。(a)と(b)の値が一致することを確認し、この一致が意味することを本文の議論を踏まえて説明しなさい。
- 位相方向のSalehパラメータが rad、 で与えられるとします。問1で求めた の値を使い、位相プリディストーション量 を計算しなさい。ただし です。
- なぜ深宇宙探査機に搭載されるTWTAでは、近地球の高速テレメトリミッションに比べて、複雑な適応型DPDの採用が避けられる傾向にあるのか。この回で学んだ適応型DPDの実装コスト(フィードバック回路・演算資源・信頼性要求)と、クライストロンとTWTAの回・APSKの回で学んだ深宇宙リンクの変調方式選択(定包絡線変調が主流であること)を踏まえて、自分の言葉で説明しなさい。
まとめと次回予告
プリディストーションは、「増幅器の非線形特性の逆関数を、増幅前の信号にあらかじめ適用しておく」という単純な発想を出発点に、Salehモデルに対して振幅方向の補償 と位相方向の補償 を具体的な閉じた式として導出できることを見ました。 の定義域の上限が、増幅器自身の物理的な飽和出力と正確に一致することからも分かるように、プリディストーションは増幅器の能力を超えて何かを作り出す技術ではなく、線形に振る舞う動作範囲を増幅器の物理限界いっぱいまで引き伸ばす技術です。アナログ回路で固定的な補償をかける方式から、ベースバンドでメモリ多項式モデルを使い、フィードバックによって係数を絶えず更新し続ける適応型DPDまで、実装コストと追従性能のあいだには明確なトレードオフがあり、深宇宙探査機はそのコストの高さゆえに、多くの場合むしろ「そもそも歪みに強い定包絡線変調を選ぶ」という設計判断を下してきました。
ここまで、変調・非線形増幅・その線形化と、送信側の信号がどう作られ、どう歪み、どう補償されるかを追ってきました。次回からは視点をリンクのもう一つの軸、すなわち受信側でどう信号を確実に受け取るかという信頼性の問題に移します。手始めに、1本のアンテナ・1系統の受信機だけに頼るのではなく、複数の受信経路(複数のアンテナや偏波、あるいは複数の地上局)から得られる信号を組み合わせて受信品質を底上げするダイバーシティ合成の考え方に軽く触れ、以降の回でその数式的な扱いを深めていきます。
参考文献
- A. A. M. Saleh, “Frequency-Independent and Frequency-Dependent Nonlinear Models of TWT Amplifiers,” IEEE Transactions on Communications, vol. 29, no. 11, 1981
- J. K. Cavers, “Amplifier Linearization Using a Digital Predistorter with Fast Adaptation and Low Memory Requirements,” IEEE Transactions on Vehicular Technology, vol. 39, no. 4, 1990
- P. B. Kenington, High-Linearity RF Amplifier Design, Artech House, 2000
- CCSDS 131.2-B, Flexible Advanced Coding and Modulation Scheme for High Rate Telemetry Applications
- ETSI EN 302 307, Digital Video Broadcasting (DVB); Second Generation Framing Structure, Channel Coding and Modulation Systems for Broadcasting, Interactive Services, News Gathering and Other Broadband Satellite Applications (DVB-S2)
- J. H. Yuen (ed.), Deep Space Telecommunications Systems Engineering, JPL Publication 82-76