システム・運用#90
Sパラメータと2端子対網理論 — 進行波と反射波で高周波回路を記述する
GHz帯の回路では電圧・電流という馴染み深い量そのものが位置によって揺らぎ、定義があいまいになる。進行波と反射波の比という新しい物差しでフィルタ・増幅器・ダイプレクサを記述するSパラメータの枠組みを、その導出から縦続接続、ネットワークアナライザによる実測まで数式で追う。
前提知識: 伝送線路理論とVSWR — アンテナと送受信機をつなぐケーブルの物理
この回で学ぶこと
前回、伝送線路上では電圧・電流が位置とともに正弦的に変化し、進行波と反射波の重ね合わせとして記述されること、そしてその反射の度合いを表す反射係数 とVSWR(電圧定在波比)を学びました。この回では、その考え方を「線路の途中の1点」から「回路全体の入出力ポート」へと拡張します。
低周波回路では、電圧計・電流計を端子に当てれば「この素子の電圧は3V、電流は0.5A」と迷いなく言えました。しかし高周波回路、とくにGHz帯の探査機・地上局の無線系(フィルタ、増幅器、ダイプレクサなど)では、この当たり前の測定行為自体が破綻します。この回では、なぜ電圧・電流による回路記述が高周波で困難になるのかを出発点に、進行波・反射波の振幅 を使って2端子対(2ポート)回路網を記述する**Sパラメータ(散乱行列, Scattering Parameters)**を導出します。さらに、Sパラメータで表された各成分()が何を意味するのか、複数の回路網を縦続接続したときにどう扱うのか、そして実務でネットワークアナライザやリンクバジェット計算にどう使われているのかを見ていきます。
直感的導入
なぜわざわざ新しい物差しが必要なのでしょうか。理由は大きく2つあります。
理由1: 高周波では「電圧」そのものが位置によって揺らぐ。 低周波回路理論(集中定数回路)は、回路の物理的な大きさが信号の波長に比べて十分小さいという前提の上に成り立っています。この前提のもとでは、ある瞬間に回路のどこを測っても電圧・電流はほぼ一様であり、「この端子対の電圧」という言い方に意味があります。ところが前回見たように、GHz帯の信号は波長が数cm〜数十cmのオーダーになり、回路や配線の寸法と比べられる大きさになります。このとき電圧・電流は、進行波と反射波の重ね合わせとして線路上の位置 に依存する量になり、「基準面をどこに取るか」を決めない限り「電圧が何ボルトか」という問いにすら一意の答えがありません。
理由2: 開放・短絡という終端条件そのものが高周波では作れない。 低周波回路網理論で使われるZパラメータ(インピーダンス行列)やYパラメータ(アドミタンス行列)は、それぞれ「相手のポートを開放(電流ゼロ)」あるいは「短絡(電圧ゼロ)」にして測定することが定義の前提になっています。しかし高周波では、開放端は必ずわずかな浮遊容量を、短絡端は必ずわずかな寄生インダクタンスを持ってしまい、理想的な開放・短絡はどこまで周波数を上げても実現できません。さらに深刻なのは、増幅器のような能動素子を開放・短絡に近い条件で終端すると、内部の帰還ループが不安定化し、測定しようとした素子そのものが発振してしまうことさえあるという点です。
この2つの困難を同時に解決するのがSパラメータの発想です。ポートを「開放」や「短絡」ではなく、線路の特性インピーダンス (多くは50Ω)に整合させた抵抗性負荷で終端するのです。整合終端は反射を一切生まないため安全に実現でき、しかも能動素子を不安定化させにくいという実務的な利点があります。そのうえで回路を、電圧・電流という位置依存のあいまいな量ではなく、その整合終端に向かって伝わっていく進行波(入射波)と、そこから跳ね返ってくる反射波の振幅比として記述します。これがSパラメータの基本アイデアです。
数式定式化
正規化された進行波・反射波の定義
特性インピーダンス の伝送線路につながるポート において、電圧 と電流 を、入射方向の電圧波 と反射方向の電圧波 の重ね合わせとして書きます。
これを について解き、電力の次元に揃えるために で正規化した量を導入します。
逆に は から次のように復元できます。
この正規化の最大の利点は、 の絶対値の2乗がそのままポート に出入りする平均電力を表すことです。ポート に流れ込む正味の実効電力は、
となります(導出は演習問題1で確認します)。つまり は「ポート に入射している電力」、 は「ポート から反射・放出されている電力」であり、その差が実際に回路網へ正味で受け渡される電力です。電圧・電流という位置依存であいまいな量の代わりに、明確に定義できる電力の出入りを基準に回路を記述できることが、この正規化の物理的な意味です。
Sパラメータ行列の定義
2端子対(2ポート)回路網を考えます。ポート1・ポート2それぞれに入射波 を与えたとき、反射・透過してくる波 は、回路網が線形であれば入射波の線形結合として表せます。
これが**散乱行列(S行列)**であり、各成分 を求めるには、着目していない側のポートの入射波をゼロにする必要があります。たとえば
という定義において「」が意味するのは、ポート2を特性インピーダンス の整合負荷で終端するということです。整合終端はポート2に到達した波を反射せずすべて吸収するため、ポート2からの新たな入射波は生じません。これが、前節で述べた「開放・短絡の代わりに整合終端を使う」という発想が、そのままSパラメータの定義の中に組み込まれている理由です。
各成分の物理的意味
4つの成分はそれぞれ独立した物理的意味を持ちます。
- (入力反射係数): ポート2を整合終端した状態で、ポート1に入射した波のうちどれだけが跳ね返ってくるか。これは前回学んだ反射係数 そのものであり、 が小さいほど入力整合が良く、電力が無駄なく回路網の内部へ受け渡されていることを意味します。dB表示ではリターンロス(Return Loss) として、またVSWRとは という前回学んだ関係式でそのまま結びついています。
- (順方向伝達係数): ポート1からポート2への信号の伝わりやすさ。受動素子(フィルタ、ケーブル)なら挿入損失(Insertion Loss) として、増幅器のような能動素子なら利得(Gain) としてそのままdB値になります。
- (逆方向伝達係数): ポート2からポート1へ、信号が逆流してどれだけ漏れ込むか。増幅器では信号が入力側に逆流しないことが望ましく、 をアイソレーション(Isolation) と呼びます。フィルタ・ケーブルのような**受動かつ相反(reciprocal)**な素子では、順方向と逆方向で経路の物理的性質が変わらないため が成り立ちます(相反定理)。一方、フェライトを使ったアイソレータやサーキュレータのように内部に磁性体を持つ非相反素子では意図的に となるよう設計されます。
- (出力反射係数): の逆で、ポート1を整合終端した状態でのポート2側の反射。
損失のない(無損失)受動2ポート回路網では、入射電力と反射・透過電力の総和が保存されるという物理的制約から、S行列はユニタリ行列になります。とくに各ポートについて
が成り立ちます。つまり理想的な無損失回路網では「反射して戻る電力」と「透過して出ていく電力」の割合だけが変化し、その合計は常に入射電力に等しくなります。実在の回路網(ケーブル、フィルタの通過帯域内の抵抗損失など)ではわずかにこの等式が破れ、 となった分がジュール熱として散逸した電力に対応します。
縦続接続とABCD行列
複数の2ポート回路網——たとえば「ケーブル→フィルタ→増幅器」——を縦続接続したとき、全体の特性をどう求めればよいでしょうか。ここで注意が必要なのは、Sパラメータの行列はそのままでは単純に掛け合わせて縦続接続を表せないという点です。 行列は「入射波→反射波」という向きの異なる量を結びつけているため、ある回路網の出力ポートの を次の回路網の入力ポートの にそのまま接続する、という縦続構造とは行列の形が噛み合いません。
そこで縦続接続の計算には、電圧・電流を使った**ABCD行列(F行列、伝送行列とも呼ばれる)**を経由するのが伝統的な方法です。ポートの電圧・電流を
と定義すると(出力側の電流の符号を反転させているのは、縦続接続したときに「ある回路網の出力電流」が「次の回路網への入力電流」にそのまま等しくなるようにするためです)、2つの回路網を縦続接続した全体のABCD行列は、単純な行列の積
で求まります。これがABCD行列が縦続接続の解析に使われる理由です。実務では、測定・仕様はSパラメータで与えられることが多いため、(1) 各回路網のSパラメータをABCD行列に変換し、(2) 行列を掛け合わせて全体のABCD行列を求め、(3) それを再びSパラメータに変換し直す、という手順を踏みます(変換式自体は を使った有理式で与えられ、現在ではほぼすべてCAD・シミュレータが自動で計算します)。探査機RFフロントエンド設計の回で扱った、共振器を複数段重ねたダイプレクサのフィルタ特性も、原理的にはこの縦続接続の考え方——1段ごとのABCD行列(あるいはS行列)を掛け合わせて全体の周波数特性を組み立てる——の上に成り立っています。
ただし、実務上とくに重要な特殊ケースがあります。もしすべての段の入出力インピーダンスが に整合しており、段と段の間で反射が実質的に無視できるなら、全体の伝達特性は各段の の単純な積として近似できます。
これをdBで表せば、各段の挿入損失・利得(dB)を単純に足し合わせるだけでよいことになります。
これは次節で見るリンクバジェット計算の基礎になっている近似です。段間の整合が悪く反射が無視できない場合には、この単純な積は成り立たず、複数の反射の重ね合わせ(多重反射)まで含めた厳密なABCD行列計算(あるいはSパラメータのT行列表現)が必要になります。
実務での使われ方
ネットワークアナライザ(VNA, Vector Network Analyzer)による実測。 Sパラメータは定義そのものが「整合終端した状態での入射波・反射波の比」であるため、実験室での測定方法とほぼ直結しています。VNA(Keysight PNAシリーズ、Rohde & Schwarz ZNBシリーズなど)は、内部の方向性結合器で入射波と反射波を分離して取り出し、既知の校正標準(短絡・開放・整合負荷・スルーを使うSOLT校正が代表的)を使って測定系自体の誤差(方向性の不完全さ、ケーブル損失、位相遅延など)を較正した上で、DUT(Device Under Test)の を周波数掃引しながら直接出力します。この校正の枠組みが確立しているからこそ、Sパラメータは「測って終わり」ではなく、異なる研究室・異なるメーカー間でも比較可能な標準化された量として扱えます。
部品データシートがSパラメータで提供される理由。 フィルタ、増幅器、アンテナ給電回路など、RF部品のデータシートはほぼ例外なくSパラメータ(多くは業界標準のTouchstoneファイル形式、拡張子 .s2p など)で提供されます。これは、(1) 整合終端という実現可能な条件で測定・規定できる、(2) 前節で見た通り複数部品を縦続接続したときの全体特性を(近似的には単純な積算で、厳密にはABCD変換で)計算できる、(3) 増幅器の利得のみならず入出力の整合特性まで同時に規定できる、という3つの利点をSパラメータが備えているためです。探査機RFフロントエンド設計の回で扱ったダイプレクサも、実機の評価・受入試験では送信アームの (挿入損失)、受信アームとの間の に相当するアイソレーション特性が、まさにこのSパラメータ測定によって検証されます。
リンクバジェット計算における段間の連結。 探査機RFフロントエンド設計の回で見たリンクバジェットの式
に現れる は、まさに各段の にほかなりません。TWTAの出力からアンテナ給電点までの経路上に並ぶケーブル・ダイプレクサ・スイッチが、それぞれ (あるいは導波管であればその特性インピーダンス)に整合したインターフェースで設計・接続されているからこそ、前節の近似が成り立ち、設計者は各段のSパラメータのデータシート値を単純にdBで足し引きするだけでシステム全体の利得・損失を見積もることができます。DSN Telecommunications Link Design Handbook (810-005) のLink Design Control Tableも、本質的にはこの「各段のSパラメータ由来の利得・損失項をdBで積み上げる」という考え方に沿って構成されています。
演習問題
- 、 を使い、ポート に流れ込む実効電力 が に等しくなることを、複素共役の計算を丁寧に追って示してください。
- あるアンテナ給電回路の入力ポートのリターンロスが dB だったとします。 を求め、前回学んだ関係式 を使ってVSWRを計算してください。
- ケーブル(挿入損失 dB)、ダイプレクサの送信アーム(挿入損失 dB)、冗長スイッチ(挿入損失 dB)を、すべて に整合した状態で縦続接続したとします。本文の近似式を使って全体の挿入損失をdBで求め、さらに電力の透過率(線形値、)に変換してください。
- 相反(reciprocal)な受動2ポート回路網では が成り立つ理由を、電磁気学における相反定理の考え方に触れながら自分の言葉で説明してください。また、フェライトサーキュレータのような非相反素子がなぜ「送信信号がLNAへ直接漏れ込むのを防ぎたい」というダイプレクサ的な用途に有用なのか、 と が大きく異なる(片方向にしか信号を通さない)という性質と結びつけて考察してください。
まとめと次回予告
高周波回路では、電圧・電流という低周波では自明だった量が位置に依存してあいまいになり、Z/Yパラメータが前提とする理想的な開放・短絡終端も実現できません。Sパラメータは、この2つの困難を「整合終端に対する入射波・反射波の比」という発想で回避し、 という行列表現によって2端子対回路網の入出力特性——入力反射 、順方向伝達 、逆方向伝達(アイソレーション) 、出力反射 ——を明確に記述します。複数の回路網を縦続接続する際にはABCD行列への変換が本来の厳密な手段ですが、各段が に整合している実務上多くの場面では、各段の (dB)を単純に足し合わせるだけでよく、これがリンクバジェット計算の基礎になっています。
次回は、この回で「Sパラメータで特性評価される」と繰り返し触れてきたRF部品の中身に踏み込み、RFフィルタ設計を扱います。探査機RFフロントエンド設計の回でダイプレクサの挿入損失・アイソレーションのトレードオフを近似式で扱いましたが、今回学んだSパラメータの枠組みを使うことで、フィルタの通過帯域特性やチェビシェフ・バターワースといった応答形状の設計原理を、より正確に定式化していきます。
参考文献
- D. M. Pozar, Microwave Engineering, 4th ed., Wiley (Chapter on Microwave Network Analysis)
- K. Kurokawa, “Power Waves and the Scattering Matrix,” IEEE Transactions on Microwave Theory and Techniques, vol. 13, no. 2, pp. 194–202, 1965
- Keysight (旧Agilent/HP) Application Note 95-1, S-Parameter Techniques
- CCSDS 401.0-B, Radio Frequency and Modulation Systems, Part 1: Earth Stations and Spacecraft
- DSN Telecommunications Link Design Handbook, DSN No. 810-005
- J. H. Yuen (ed.), Deep Space Telecommunications Systems Engineering, JPL Publication 82-76