測距・追跡#87

マルチパス・フェージング — LEO・移動体リンクで直接波と反射波がぶつかり合うとき

深宇宙探査機の電波はほぼ単一経路の見通し内(LOS)リンクだったが、地表近くを飛ぶLEO衛星や車載・船舶端末が受信する信号には、地面・海面・建物からの反射波が直接波に重なって届く。レイリー/ライスフェージングとドップラー広がりを数式で導出し、アンテナ追尾・搬送波追尾ループへの影響と実務対策を理解する。

前提知識: アンテナ自動追尾 — コニカルスキャンとモノパルスでビームを向け続ける

マルチパスフェージングレイリーフェージングライスフェージングドップラー広がり移動体衛星通信

この回で学ぶこと

これまで扱ってきたPLLの回アンテナ自動追尾の回では、探査機と地上局を結ぶ電波は、暗黙のうちに「1本の経路」だけを通ってくるものとして扱ってきました。深宇宙探査機は地球から数百万km〜数十億km彼方にあり、地球側のアンテナも周囲に障害物のない広大な敷地に建てられているため、電波は基本的に見通し内(Line-of-Sight, LOS)の単一経路を通って届きます。途中で信号が弱まる要因はこれまで見てきた降雨減衰や熱雑音、太陽コロナのような、経路そのものに沿った緩やかな減衰・位相擾乱がほとんどでした。

しかし、この単一経路という前提は、対象をLEO(低軌道)衛星や地上の移動体端末(車載端末、船舶端末、携帯型VSATなど)に広げたとたんに崩れます。地表近くにアンテナを置く受信機には、送信機からの直接波に加えて、地面・海面・周囲の建造物・車両のボディなどで反射した複数の反射波が、それぞれ異なる経路長・異なる位相・異なる到来角で重なり合って届きます。これが今回のテーマであるマルチパス(multipath、多重経路)伝搬です。

ここで強調しておきたいのは、これが降雨減衰の回や太陽コロナで見てきた「大気・プラズマ中の粒子による電波の吸収・散乱」とはまったく別の物理現象だという点です。降雨減衰は雨滴という媒質中の粒子群が電波エネルギーを奪う(散乱・吸収する)現象で、経路が1本であることに変わりはなく、その1本の経路上でエネルギーが失われていくというモデルでした。これに対しマルチパスは、媒質による損失ではなく、幾何学的に異なる複数の経路を通った同一の信号のコピー同士が、受信点で位相をずらしながら足し合わされる(干渉する)ことによる信号強度の変動です。個々の反射波はそれぞれほとんど減衰していないかもしれませんが、それらの位相関係次第では受信点で強め合うことも弱め合うこともあり、しかも送受信機や周囲の物体が動けばこの位相関係は刻々と変化します。この「経路差に起因する干渉」という点が、この回で扱う現象を理解する上での核心です。

具体的には、次の4つを数式とともに追っていきます。

  1. 多数の反射波の重ね合わせが、中心極限定理によってどのようにガウス性の複素信号に近づき、その包絡線がレイリー分布に従うようになるか(反射波のみの場合)
  2. 直接波(見通し内成分)が強く残っている場合に、包絡線の分布がレイリー分布からライス分布へどう一般化されるか
  3. 送受信機の相対運動によって生じるドップラー広がりと、それと表裏一体の関係にあるコヒーレンス時間
  4. これらの急峻な信号変動が、アンテナ自動追尾PLLによる搬送波追尾にどのような負荷をかけるか

直感的導入 — なぜ「動くと電波が強くなったり弱くなったりする」のか

車に載せたラジオや、ビルの谷間を歩くスマートフォンで、電波の入りが数十cm移動しただけで急に良くなったり悪くなったりする経験をした人は多いはずです。これがマルチパスフェージングの最も身近な現れです。

直感的なメカニズムはこうです。送信機からの電波は、受信アンテナに向かって直接届く経路のほかに、地面で反射して届く経路、隣のビルの壁で反射して届く経路など、複数の経路を通って同時に到達します。それぞれの経路は長さが微妙に異なるため、受信点に届いたときの位相がバラバラになります。これらの波は電場として重ね合わされる(ベクトル和を取る)ので、たまたま多くの経路の位相が揃えば振幅は大きく強め合い(建設的干渉)、逆にちょうど半波長ずれるような経路差の組み合わせが多ければ振幅は打ち消し合ってほぼゼロに近づきます(破壊的干渉)。

受信機や反射体(通行人、他の車、揺れる船体など)が動くと、それぞれの経路長がミリ波長・センチ波長のオーダーで刻々と変化し、位相関係が絶えず組み替わります。その結果、受信電力は時間的に激しく、しかし予測不可能な形で変動します。これが「フェージング(fading、電波の深い落ち込みが繰り返し起こる現象)」です。重要なのは、この変動が個々の波の減衰(降雨のような媒質損失)によるものではなく、波の干渉という幾何学的・位相的な現象だという点です。

深宇宙探査機のリンクでこの現象がほぼ無視できたのは、(1) 地上局アンテナの周囲に強い反射体がなく、(2) アンテナのビーム幅が非常に狭く、地面方向からの反射波をそもそも受信しないよう幾何学的に排除できていたからです。ところがLEO衛星のユーザー端末(たとえば車載アンテナ、船舶用アンテナ)は地表すれすれの低仰角方向まで衛星を追う必要があり、周囲の建物や海面・地面からの反射波を排除しきれません。これが今回、深宇宙リンクにはなかった新しい物理を扱う理由です。

受信信号のモデル化 — 複素ベースバンド表現

まず送信された狭帯域信号を s(t)=Re{s~(t)ej2πfct}s(t) = \text{Re}\{\tilde{s}(t) e^{j2\pi f_c t}\} とします(s~(t)\tilde{s}(t) は複素ベースバンド信号、fcf_c は搬送波周波数)。マルチパス環境では、受信機には NN 本の経路を通った信号のコピーが重なって届きます。nn番目の経路の減衰を ana_n、遅延を τn\tau_n、位相回転(反射による位相シフトや経路長による位相回転をまとめたもの)を ϕn\phi_n とすると、受信された複素ベースバンド信号は

r~(t)=n=1Nanejϕn(t)s~(tτn)\tilde{r}(t) = \sum_{n=1}^{N} a_n\, e^{j\phi_n(t)}\, \tilde{s}(t-\tau_n)

と書けます。ここで話を最も基本的なケースに絞るため、シンボル周期に対して経路遅延の広がり(τn\tau_nのばらつき、遅延広がり・delay spread)が十分小さい、いわゆる狭帯域(フラット)フェージングを仮定します。この条件下では s~(tτn)s~(t)\tilde{s}(t-\tau_n) \approx \tilde{s}(t) とみなせるので、

r~(t)[n=1Nanejϕn(t)]s~(t)    g(t)s~(t)\tilde{r}(t) \approx \left[\sum_{n=1}^{N} a_n\, e^{j\phi_n(t)}\right] \tilde{s}(t) \;\equiv\; g(t)\,\tilde{s}(t)

となります。ここで導入した複素量

g(t)=n=1Nanejϕn(t)=X(t)+jY(t)g(t) = \sum_{n=1}^{N} a_n\, e^{j\phi_n(t)} = X(t) + jY(t)

が**フェージング係数(複素利得)**で、この g(t)g(t) の統計的性質(振幅 g(t)|g(t)| がどんな確率分布に従うか、どれくらいの速さで時間変化するか)を明らかにすることが、この回の数学的な目標です。実部 X(t)=nancosϕn(t)X(t) = \sum_n a_n\cos\phi_n(t)、虚部 Y(t)=nansinϕn(t)Y(t) = \sum_n a_n\sin\phi_n(t) とおきます。

レイリーフェージング — 見通し内成分がない場合

まず、受信機周辺に強い散乱体が多数あり、直接波(LOS成分)が存在しない、あるいは他の反射波に比べて無視できるほど弱い状況を考えます(市街地の谷間や、船舶が海面反射に囲まれる状況などが典型例です)。

反射波の本数 NN が十分大きく、かつ各経路の位相 ϕn\phi_n[0,2π)[0, 2\pi) 上に一様分布し、かつ互いに独立であるとします(反射体の配置や送受信機の位置関係を考えれば、これは物理的にも自然な仮定です)。このとき X(t)X(t)Y(t)Y(t) は、それぞれ多数の独立な確率変数(ancosϕna_n\cos\phi_nansinϕna_n\sin\phi_n)の和になっています。中心極限定理により、NN \to \infty の極限で XXYY はそれぞれ平均ゼロの正規分布に近づきます。

XN(0,σ2),YN(0,σ2)X \sim \mathcal{N}(0,\sigma^2), \qquad Y \sim \mathcal{N}(0,\sigma^2)

さらに cosϕn\cos\phi_nsinϕn\sin\phi_nϕn\phi_n が一様分布のもとで無相関になることが示せるため、XXYY も互いに独立な正規分布と近似できます。分散 σ2\sigma^2 は各経路の平均電力の総和 σ2=12nE[an2]\sigma^2 = \frac{1}{2}\sum_n \mathbb{E}[a_n^2] で与えられます(この量が、周囲の散乱環境が受信機にもたらす平均的な多重経路電力の総量です)。

この X,YX, Y の同時確率密度は、独立な2次元正規分布として、

fX,Y(x,y)=12πσ2exp ⁣(x2+y22σ2)f_{X,Y}(x,y) = \frac{1}{2\pi\sigma^2}\exp\!\left(-\frac{x^2+y^2}{2\sigma^2}\right)

複素利得の包絡線(振幅) R=g=X2+Y2R = |g| = \sqrt{X^2+Y^2}位相 Θ=arg(g)\Theta = \arg(g) に極座標変換します(x=rcosθ, y=rsinθx = r\cos\theta,\ y=r\sin\theta、ヤコビアンは rr)。θ\theta について積分消去すると、RR の周辺確率密度が得られます。

fR(r)=02πr2πσ2exp ⁣(r22σ2)dθ=rσ2exp ⁣(r22σ2),r0f_R(r) = \int_0^{2\pi} \frac{r}{2\pi\sigma^2}\exp\!\left(-\frac{r^2}{2\sigma^2}\right) d\theta = \frac{r}{\sigma^2}\exp\!\left(-\frac{r^2}{2\sigma^2}\right), \qquad r \ge 0

これが**レイリー分布(Rayleigh distribution)**です。すなわち、見通し内成分を持たない多数の反射波が重なり合う環境では、受信信号の包絡線はレイリー分布に従うことが、中心極限定理から導かれます。位相 Θ\Theta の方は、この対称な2次元正規分布の帰結として [0,2π)[0,2\pi) 上の一様分布になり、振幅 RR とは独立になることも同じ計算から確認できます。

レイリー分布の性質として、受信電力 W=R2W = R^2 は指数分布に従うことも重要です。w=r2w=r^2 と変数変換すると、

fW(w)=12σ2exp ⁣(w2σ2),E[W]=2σ2Ωf_W(w) = \frac{1}{2\sigma^2}\exp\!\left(-\frac{w}{2\sigma^2}\right), \qquad \mathbb{E}[W] = 2\sigma^2 \equiv \Omega

平均電力を Ω\Omega とおいて書き直せば、瞬時受信電力が平均電力 Ω\Omega を下回る確率(フェード深さ xx dB以上の落ち込みが起きる確率)は簡単に計算できます。たとえば平均電力から xx dB下がったレベル w0=Ω10x/10w_0 = \Omega \cdot 10^{-x/10} を下回る確率は

P(Ww0)=1exp ⁣(w0Ω)w0Ω(w0Ω)P(W \le w_0) = 1-\exp\!\left(-\frac{w_0}{\Omega}\right) \approx \frac{w_0}{\Omega} \quad (w_0 \ll \Omega)

深いフェード(xxが大きい)ほど、この確率はほぼ w0/Ωw_0/\Omega に線形比例して小さくなる、という近似が成り立ちます。たとえば10dBのフェードマージンでは w0/Ω=101=0.1w_0/\Omega = 10^{-1}=0.1 なので、およそ10%の時間、瞬時電力が平均から10dB以上落ち込む計算になります。これが後述するフェードマージン設計の定量的な根拠です。

ライスフェージング — 見通し内成分がある場合

次に、直接波(LOS成分)が反射波に比べて無視できない強さで存在する状況を考えます。これはLEO衛星や静止衛星への可搬端末で、衛星方向が遮蔽されておらず直接波を受信できているが、同時に地面や周辺構造物からの反射波も無視できない、という多くの実運用ケースに対応します。

この場合、複素利得は「一定振幅・一定位相の直接波成分」と「先ほどと同じ統計的性質を持つ多数の散乱波成分の和」の重ね合わせとしてモデル化します。

g(t)=Aejϕ0LOS成分(一定)+X(t)+jY(t)散乱成分(ガウス過程)g(t) = \underbrace{A e^{j\phi_0}}_{\text{LOS成分(一定)}} + \underbrace{X(t) + jY(t)}_{\text{散乱成分(ガウス過程)}}

散乱成分 X,YX, Y は前節と同じく独立な N(0,σ2)\mathcal{N}(0,\sigma^2) に従うと仮定します。一般性を失わずLOS成分の位相 ϕ0=0\phi_0 = 0 と置く(座標系をそのように取る)と、実部は平均 AA、虚部は平均 00 の正規分布になります。

XN(A,σ2),YN(0,σ2)X \sim \mathcal{N}(A,\sigma^2), \qquad Y \sim \mathcal{N}(0,\sigma^2)

包絡線 R=X2+Y2R=\sqrt{X^2+Y^2} の確率密度は、レイリー分布の場合と同様に極座標に変換して位相方向を積分すると求まりますが、今回はガウス分布の中心が原点からずれているため、積分の中に 00次の第1種変形ベッセル関数 I0()I_0(\cdot) が現れます。

 fR(r)=rσ2exp ⁣(r2+A22σ2)I0 ⁣(Arσ2),r0 \boxed{\ f_R(r) = \frac{r}{\sigma^2}\exp\!\left(-\frac{r^2+A^2}{2\sigma^2}\right) I_0\!\left(\frac{Ar}{\sigma^2}\right), \qquad r\ge0\ }

これが**ライス分布(Rice distribution)です。ここで I0(x)=12π02πexcosθdθI_0(x) = \frac{1}{2\pi}\int_0^{2\pi} e^{x\cos\theta}\,d\theta で、A=0A=0(直接波なし)とすると I0(0)=1I_0(0)=1 となり、前節のレイリー分布に厳密に一致することが確認できます。すなわちレイリー分布はライス分布の特殊ケース(LOS成分ゼロの極限)**です。

ライス分布の形状を特徴づけるのが**ライスK因子(Rice K-factor)**で、直接波の電力と散乱波の総電力の比として定義されます。

K=A22σ2K = \frac{A^2}{2\sigma^2}

KK が大きいほど(直接波が支配的なほど)分布は狭く鋭くなり、電波環境はフェージングの影響を受けにくい「安定した」リンクに近づきます。逆に K0K \to 0 では前節のレイリー分布(激しいフェージング)に近づきます。実務上、KK は「直接波を確保しつつどれだけ反射波混入を許すか」という、アンテナ設置環境の質を表す1つの指標として使われます。たとえば見晴らしのよい平坦な田園地帯を走行する車載端末では KK は数dB〜10dB程度、都市部の谷間や船体構造物の陰になりやすい船舶甲板上のアンテナではより低い KK になりやすい、といった定性的な傾向があります。

ドップラー広がりとコヒーレンス時間

ここまでは、ある瞬間における振幅の統計分布(1次統計)を見てきました。次に、フェージングがどれくらいの速さで時間変化するかという2次統計、すなわち周波数領域・時間領域での広がりを見ていきます。

個々の反射波が持つドップラーシフト

受信機(あるいは送信機)が速度 vv で移動しているとき、nn番目の反射波が受信機に到来する角度を、移動方向を基準として θn\theta_n とすると、その経路のドップラーシフトは

fn=fmcosθn,fm=vλf_n = f_m \cos\theta_n, \qquad f_m = \frac{v}{\lambda}

で与えられます。fmf_m は最大ドップラーシフト(移動方向と真正面から到来する波、あるいは真後ろから到来する波で生じる、絶対値が最大のシフト)、λ\lambda は搬送波の波長です。直接波1本だけの深宇宙リンクであれば、ドップラーシフトは探査機-地上局間の相対速度で決まるただ1つの値 fnf_n でしたが、マルチパス環境ではそれぞれ異なる到来角 θn\theta_n を持つ多数の反射波が、それぞれ異なるドップラーシフト fnf_n を持つという点が本質的に新しい点です。

Clarkeのドップラースペクトルモデル

到来角 θn\theta_n が水平面内に一様分布していると仮定する(周囲を散乱体に囲まれた典型的な移動体環境でよく使われる仮定、Clarkeの2次元等方散乱モデル)と、受信信号電力のドップラー周波数に対する分布(ドップラースペクトル)は、次の古典的な形(Jakesスペクトルとも呼ばれます)に従うことが導けます。

S(f)=1πfm1(f/fm)2,f<fmS(f) = \frac{1}{\pi f_m \sqrt{1-(f/f_m)^2}}, \qquad |f| < f_m

この式は f=±fmf=\pm f_m の付近(到来波の入射角が移動方向にほぼ平行なとき)でスペクトル密度が発散する、U字型(お椀を逆さにしたような)形状を持つことが特徴です。重要なのは、1本の経路なら受信スペクトルは搬送波周波数上の1本の鋭い線でしかないが、多数の反射波が異なる角度から到来することで、受信スペクトルが幅 2fm2f_m に広がるという点です。この現象を**ドップラー広がり(Doppler spread)**と呼び、そのスペクトル幅

Bd2fm=2vλB_d \approx 2f_m = \frac{2v}{\lambda}

がドップラー広がりの目安です。

コヒーレンス時間

周波数領域での広がり BdB_d は、時間領域では「フェージング係数 g(t)g(t) がどれくらいの時間スケールで大きく変化するか」というコヒーレンス時間(coherence time) TcT_c と、フーリエ変換の不確定性関係を通じて逆数の関係にあります。

Tc1Bdλ2vT_c \sim \frac{1}{B_d} \approx \frac{\lambda}{2v}

より精密には、g(t)g(t) の時間自己相関関数がJakesスペクトルのフーリエ逆変換として0次の第1種ベッセル関数 J0(2πfmτ)J_0(2\pi f_m \tau) の形になることを使い、自己相関がある閾値(たとえば0.5)まで下がる時間として、次のような経験式もよく用いられます。

Tc916πfm0.423fmT_c \approx \frac{9}{16\pi f_m} \approx \frac{0.423}{f_m}

物理的な意味は明快です。受信機(あるいは反射体)の移動速度が速いほど、あるいは搬送波の波長が短い(周波数が高い)ほど、ドップラー広がりは大きくなり、コヒーレンス時間は短くなる、すなわちフェージングはより速く、より激しく変動します。たとえば時速100kmで走行する車載端末がKuバンド(12GHz、λ2.5\lambda\approx2.5cm)で通信する場合、

fm=vλ=27.8 m/s0.025 m1.1 kHz,Tc0.42311000.38 msf_m = \frac{v}{\lambda} = \frac{27.8\ \text{m/s}}{0.025\ \text{m}} \approx 1.1\ \text{kHz}, \qquad T_c \approx \frac{0.423}{1100} \approx 0.38\ \text{ms}

というオーダーが得られます。わずか0.4ミリ秒程度で受信信号の振幅・位相が大きく組み替わる、という非常に速い変動です。これは降雨減衰のような、分〜時間のオーダーでゆっくり変化する減衰とは、時定数にして5桁以上異なる、まったく別の速さの現象であることが分かります。

アンテナ追尾・搬送波追尾ループへの影響

ここでアンテナ自動追尾の回PLLの回で見た負帰還ループの議論に、マルチパスフェージングという新しい外乱を接続します。

コニカルスキャンやモノパルスによる角度誤差検出は、受信電力(あるいは和・差チャンネルの振幅)が「ボアサイトからのズレのみ」を反映しているという前提のもとに成り立っていました。しかしマルチパス環境では、受信電力 R2R^2 自体が、角度誤差とは無関係にレイリー/ライス統計に従って激しく変動します。信号がフェード(深い落ち込み)を起こしている瞬間には、実際にはアンテナが正しく衛星を向いていても、あたかも大きく指向誤差があるかのような誤った誤差信号を生成しかねません。特にモノパルス方式は Δ/Σ\Delta/\Sigma の比を取ることで送信電力の緩やかな変動には頑健でしたが、フェード中は Σ\Sigma(和チャンネル)自体のSNRが一時的に大きく低下するため、比の推定精度そのものが劣化するという別の弱点が露呈します。

同様に、PLLの回で見た搬送波追尾ループも、フェージングが引き起こす急激な振幅低下・位相回転によって試練を受けます。フェードの谷では瞬時的にループSNR ρL\rho_L が大きく低下し、ループが搬送波位相を見失うサイクルスリップが誘発されやすくなります。ここで鍵になるのがループの応答速度とコヒーレンス時間 TcT_c の関係です。

  • ループ帯域幅 BLB_L に対応する応答時間が、コヒーレンス時間 TcT_c より十分短ければ、ループはフェージングの変動に追従しきれてしまい(フェードの谷ではロックを維持できないにせよ、山では素早く再ロックできる)、フェード自体を「ゆっくりした信号強度変化」として追いかけることになります。
  • 逆にループ帯域幅が狭すぎて応答が TcT_c より遅いと、フェージングの1周期の中でループが十分に反応する前に信号状態が変わってしまい、ロック維持がより困難になります。

つまり、深宇宙リンクの設計では「ループ帯域幅は雑音を抑えるためにできるだけ狭く」というのが基本方針でしたが(PLLの回で見た、ループSNRを稼ぐための狭帯域化)、マルチパスフェージングが支配的な環境ではこの方針にフェージングの時定数 TcT_c に対して追従できるだけの帯域幅を確保するという、相反する要求が加わります。この2つの要求(雑音抑圧のための狭帯域化 vs. フェージング追従のための広帯域化)のバランスを取ることが、移動体衛星通信の受信機設計における重要な課題の1つです。

実務での使われ方

静止衛星通信の可搬端末(車載・船舶)における地面反射対策

車載VSATや船舶用衛星通信端末は、静止衛星(GEO)へのリンクであっても、アンテナの仰角が低い場合(高緯度地域や、水平線近くの静止衛星を狙う場合)には地面・海面からの反射波の影響を強く受けます。海面反射は特に問題になりやすく、平坦な海面は電波に対して鏡のようにふるまうため、直接波とほぼ同じ強度の反射波(高い KK 因子の悪条件、あるいは荒れた海面では逆に多数の散乱波を生むレイリー的な悪条件)が生じ得ます。

対策として、実務では次のような手法が組み合わされます。

  • アンテナの指向性を高くする: 主ビームを鋭くし、サイドローブ・バックローブレベルを低く抑えることで、目的の衛星方向以外(特に地面・海面方向)からの反射波の受信感度そのものを下げます。
  • 偏波の利用: 反射波は反射面での偏波特性の変化(海面反射では特に垂直偏波・水平偏波で反射係数が異なる)を受けるため、円偏波アンテナの採用や、受信機側での偏波識別が反射波抑圧に寄与する場合があります。
  • 設置高さの確保: 船舶マストの高い位置にアンテナを設置するなど、反射波の幾何学的な経路差を大きく取り、直接波との位相干渉が問題になりにくい配置を選びます。

この分野の伝搬特性は、ITU-R勧告P.681(陸上移動体衛星通信の伝搬特性)やP.680(海事移動体衛星通信の伝搬特性)にモデル化されており、都市部・郊外・開けた地形といった環境ごとの KK 因子やフェード深さの統計値が規定されています。また、Loo分布(対数正規分布で影(シャドーイング)を、ライス分布で多重経路を表現し両者を統合したモデル)のような、より現実的な移動体衛星チャネルモデルも、この基本的なレイリー/ライスの枠組みの上に構築されています。

LEOメガコンステレーションのユーザー端末側でのマルチパス対策

近年の低軌道メガコンステレーション(多数のLEO衛星でグローバルな通信網を構成するシステム)のユーザー端末は、静止衛星と違って衛星が空を高速で移動し続けるため、ユーザー端末は常に新しい衛星に切り替えながら、様々な仰角(低仰角も含む)で通信する必要があります。低仰角での通信は必然的に周辺の建造物・地形からの反射波を拾いやすく、マルチパスフェージングの影響がより顕著になります。

この課題に対する現代的な対策の柱が**角度ダイバーシティ(angle diversity)**です。多くのLEO端末はフェーズドアレイ(電子的にビームを走査できるアンテナ)を採用しており、電子的に鋭いビームを目的の衛星方向にのみ向けることで、原理的に地面方向・周辺構造物方向からの反射波の受信感度を大きく下げられます。さらに、複数のビーム(あるいは複数のアンテナ素子群)を用いて、わずかに異なる方向・異なる衛星からの信号を同時に受信し、フェージングで一方が深い落ち込みを起こしていても他方は健全である確率が高いことを利用してダイバーシティ合成する手法も実用化が進んでいます。これは、地上の携帯電話基地局が古くから使ってきた空間ダイバーシティ・偏波ダイバーシティの考え方を、衛星リンクのマルチパス対策に転用したものと言えます。

演習問題

  1. 平均受信電力 Ω\Omega に対して、瞬時受信電力がフェードマージン15dB分(101.5Ω10^{-1.5}\Omega)を下回る確率を、レイリーフェージングの指数分布近似 P(Ww0)w0/ΩP(W\le w_0)\approx w_0/\Omega を用いて概算せよ。同じ計算を5dBのフェードマージンについても行い、フェードマージンを10dB増やすことがどれだけ大きく落ち込み確率を下げるか比較せよ。

  2. ライスK因子が K=10K=10 dB(真数に直すと約10)の環境と、K=0K=0 dB(真数1、直接波と散乱波の電力が等しい)の環境とで、受信信号の振幅変動の激しさがどう異なると考えられるか、この回で導出したライス分布の式 fR(r)f_R(r) の形(直接波成分 AA と散乱成分の分散 σ2\sigma^2 の関係)にもとづいて定性的に説明せよ。

  3. Sバンド(2.3GHz、λ13\lambda\approx13cm)を使う船舶端末が、時速40km(約11.1m/s)で航行しているとする。最大ドップラーシフト fm=v/λf_m=v/\lambda、ドップラー広がり Bd2fmB_d\approx2f_m、コヒーレンス時間 Tc0.423/fmT_c\approx0.423/f_m をそれぞれ計算せよ。同じ速度でKaバンド(32GHz、λ0.94\lambda\approx0.94cm)を使った場合の TcT_c も求め、周波数帯の違いがフェージングの速さにどう影響するか論じよ。

  4. PLLの回で学んだループ帯域幅 BLB_L を狭くするほどループSNRが改善しサイクルスリップに強くなる、という設計方針が、マルチパスフェージングが支配的な移動体リンクではなぜ単純には成り立たなくなるのか、この回で導いたコヒーレンス時間 TcT_c とループ応答速度の関係にもとづいて自分の言葉で説明せよ。

まとめと次回予告

深宇宙探査機のリンクが基本的に単一のLOS経路上の減衰(降雨、コロナ、自由空間損失)だけを相手にしていたのに対し、LEO衛星や地上移動体のリンクでは、地面・海面・建造物からの反射波が直接波に重なり合うマルチパス伝搬という、幾何学的な波の干渉に起因する、まったく別種の信号変動と向き合う必要があることを見ました。多数の反射波の重ね合わせは中心極限定理によってレイリー分布(見通し内成分なし)あるいはライス分布(見通し内成分あり)に従う振幅変動を生み、送受信機や周辺環境の相対運動はドップラー広がり Bd2v/λB_d\approx 2v/\lambda とコヒーレンス時間 Tc0.423/fmT_c\approx 0.423/f_m という形で、その変動の速さを特徴づけることも確認しました。これらはいずれも、アンテナ自動追尾PLLで学んだ追尾ループの設計方針に、新たな時定数の制約を突きつけます。

次回は視点をアンテナ・伝搬から少し引いて、地上局・端末内部で信号がケーブルやコネクタ、導波管を伝わっていく際の反射・整合の問題を扱うRF伝送線路理論に軽く触れます。マルチパスが「アンテナの外」で起きる複数経路の干渉だったのに対し、伝送線路上のインピーダンス不整合による反射は「アンテナの内側」で起きる、規模もメカニズムも異なるもう1つの反射問題です。

参考文献

  • W. C. Jakes (ed.), Microwave Mobile Communications, IEEE Press(Clarkeの散乱モデル・Jakesドップラースペクトルの標準的な文献)
  • J. G. Proakis, M. Salehi, Digital Communications, 5th ed., McGraw-Hill(レイリー/ライスフェージングの統計的導出)
  • ITU-R Recommendation P.681, Propagation Data Required for the Design of Earth-Space Land Mobile Telecommunication Systems
  • ITU-R Recommendation P.680, Propagation Data Required for the Design of Earth-Space Maritime Mobile Telecommunication Systems
  • C. Loo, “A Statistical Model for a Land Mobile Satellite Link,” IEEE Transactions on Vehicular Technology, 1985
  • J. R. Wertz, D. F. Everett, J. J. Puschell (eds.), Space Mission Engineering: The New SMAD