変調・符号化#2
PLL — 弱い搬送波を追いかけ続けるフィードバック制御
地上局の受信機は、雑音に埋もれかけた探査機の残留搬送波をどうやって見失わずにロックし続けるのか。PLL(位相同期ループ)を線形モデル化し、伝達関数・ダンピング係数・ループ帯域幅からドップラー追尾とサイクルスリップまでを数式で追う。
前提知識: pcm-psk-pm
この回で学ぶこと
前回、PCM/PSK/PM方式では変調指数 を適切に選ぶことで、データ側波帯とは別に残留搬送波(データの乗っていない純粋なトーン)をスペクトル中に残せることを見ました。そして「この残留搬送波を地上局側で追尾し続けることで、微弱な信号でも安定に受信できるし、ドップラーシフトから探査機の速度も測れる」と述べました。
しかし、これは言うほど簡単な話ではありません。探査機は地球から数億km離れており、受信電力は W を下回ることも珍しくなく、熱雑音に埋もれかけています。しかも探査機は地球に対して常に相対運動をしているため、受信される搬送波の周波数はドップラー効果で刻々とシフトし続けます。さらに探査機が軌道上で加速度を持つ局面(スイングバイ、軌道投入、姿勢変更中の非対称な太陽輻射圧など)では、そのシフト量自体が時間とともに変化します。
つまり地上局の受信機は、「どこにあるか分からず、しかも動き続けている、極めて弱いトーン」を、雑音の中から見つけ出し、位相までピッタリ一致させ、追いかけ続けなければならないわけです。この仕事をこなすフィードバック制御回路が PLL (Phase-Locked Loop, 位相同期ループ) です。PLLは通信工学だけでなく電子回路一般に登場する基本要素ですが、深宇宙通信ではその設計パラメータの選び方が、リンクの生死を分けるほど重要になります。この回では、PLLを線形システムとしてモデル化し、伝達関数・ダンピング係数・ループ帯域幅といった設計パラメータの意味を、実際の深宇宙受信機の数値とともに理解します。
直感的な全体像
PLLの基本アイデアは驚くほどシンプルです。3つの部品を輪のようにつなぎます。
- 位相検波器 (Phase Detector, PD): 受信信号の位相と、自分の中で作っている基準信号の位相を比べて、「どれだけズレているか」を電圧に変換する。
- ループフィルタ (Loop Filter): そのズレ電圧を平滑化・積分し、雑音のギザギザを均しつつ、必要な補正の方向と大きさを決める。
- VCO (Voltage-Controlled Oscillator, 電圧制御発振器): フィルタ後の電圧に応じて、自分の発振周波数をわずかに上げ下げする。
この3つを輪にすると、「受信信号とVCOの位相がズレる → PDがそれを検出 → フィルタで整形 → VCOが自分の位相をズレを減らす方向に動かす」という**負帰還(ネガティブフィードバック)**が働きます。ちょうどオートフォーカスのカメラが被写体との距離のズレを検知して少しずつレンズを動かし続けるのと似た仕組みで、PLLは「位相のズレ」を常にゼロに近づけようとし続けます。ロックが確立すると、VCOの位相(したがって周波数)は受信搬送波にぴったり追従し、たとえ搬送波がドップラーシフトで動いても、VCOはそれを追いかけ続けます。
以下ではこの直感を、実際に信号処理の数式に落とし込んでいきます。
線形モデル: 位相検波器・ループフィルタ・VCO
PLLは本来は非線形な回路(位相検波器の出力は正弦波関数)ですが、ロックが確立していて位相誤差が小さい範囲では、線形システムとして扱うことができます。この線形近似がPLL解析の出発点です。
受信搬送波の瞬時位相を 、VCOが作る局部位相を とし、両者の差を位相誤差と定義します。
位相検波器 (Phase Detector)
位相検波器(ミキサーで実装されることが多い)の出力は、本来は
という非線形な形をしています( は位相検波器のゲイン、単位は V/rad)。しかしロック状態では は小さく、 と線形近似できるため、
と扱います。これが「線形PLLモデル」の出発点であり、以下の解析はすべてこの近似の上に成り立っています(この近似が破れるとサイクルスリップが起きます。後述します)。
VCO (電圧制御発振器)
VCOは入力電圧 に比例して瞬時角周波数を偏移させる素子です。
はVCOのゲイン(rad/s/V)です。位相は角周波数の時間積分なので、ラプラス変換すると
となり、VCOはループの中に必ず1つの積分器(伝達関数 )を持ち込むことが分かります。これが後で「Type」の議論をするときの鍵になります。
ループフィルタ
ループフィルタ は、PDの出力電圧を整形してVCOに渡す部分です。どんな を選ぶかによってループの次数(1次・2次…)と特性が決まります。もっとも単純なのは (何もしない、あるいは単純増幅)で、これを1次ループと呼びます。深宇宙受信機で標準的に使われるのは、能動PI(比例・積分)フィルタ
で、これを使ったループを2次ループと呼びます。
ラプラス変換による閉ループ解析
以上の3要素をブロック図としてつなげると、開ループ伝達関数(PD入力からVCO位相出力まで)は
となります。負帰還ループなので、閉ループ伝達関数 は
以降、ループ全体のゲインを とまとめて表記します。また、位相誤差の伝達関数(「入力位相がどれだけループに追従できずに残るか」)は
です。この が、後の定常誤差解析で主役になります。
1次ループ
の場合、
これは単純な1極のローパス系で、時定数は です。1次ループは回路が単純という利点がありますが、後で見るように、一定の周波数オフセット(ドップラーシフト)に対して必ず有限の静的位相誤差が残ってしまうという弱点を持ちます。
2次ループ (Type-II)
PIフィルタ を代入すると、
分母に が現れていることに注目してください。VCOの積分器()とフィルタの積分器()が直列に2つ入っているため、この開ループ系は原点に2つの極を持ちます。制御理論の用語で、原点の極(積分器)の数を「型(Type)」と呼ぶので、これは Type-II(2型)のループです。閉ループ伝達関数は
これを制御理論の標準形
と係数比較すると、次の対応が得られます。
ここに現れる (自然角周波数)と (ダンピング係数)が、PLLの挙動を特徴づける2大パラメータです。
ダンピング係数・自然角周波数・ループ帯域幅
はループがどれだけ速く応答するかの目安、 はその応答がどれだけ振動的(アンダーダンプ)か、あるいは緩やか(オーバーダンプ)かを表します。 だとステップ応答にオーバーシュートが生じ、 が臨界減衰、 が大きいほど過減衰でゆっくり収束します。深宇宙受信機の設計では、応答の速さと安定性のバランスが良い
が伝統的によく選ばれます。
実務的にもっとも重要なのはループ雑音帯域幅 です。これは閉ループ伝達関数の周波数応答を全周波数にわたって積分した量で、
と定義されます(単位はHz)。2次ループについてこの積分を実行すると、次の有名な結果が得られます。
はPLL設計における最重要パラメータで、次のようなトレードオフを支配します。
- を狭くする(ループを「遅く」する)と、ループに入り込む雑音電力が減り、弱い信号でも安定にロックできる(後述のループSNRが上がる)。しかし探査機のダイナミクス(周波数の急な変化)への追従が遅れ、位相誤差が増える。
- を広くする(ループを「速く」する)と、周波数変化への追従性は上がるが、雑音も多く取り込んでしまい、弱い信号ではロックを維持しにくくなる。
つまり は「静けさ」と「俊敏さ」のトレードオフを1つの数値に凝縮したものであり、実際の受信機ではミッションの信号強度とダイナミクス(想定されるドップラーレート)の両方を見て決定されます。
定常位相誤差とドップラーレート追尾
なぜ深宇宙受信機は1次ループではなく2次Type-IIループを標準として使うのか。それを終値定理(final value theorem)を使って確認しましょう。ラプラス変換の終値定理は、 がすべて左半平面(または原点)に極を持つとき、
が成り立つというものでした。これを位相誤差 に適用し、 であることを使います。
ケース1: 一定の周波数オフセット(定常ドップラーシフト)。 探査機との相対速度が一定であれば、受信搬送波には一定の周波数オフセット が乗ります。位相はその積分なので 、ラプラス変換は です。2次ループの誤差伝達関数 を使うと、
つまり、一定のドップラーシフトに対しては定常位相誤差が完全にゼロになります。 これが2次(Type-II)ループの本質的な強みです。比較のために1次ループで同じ計算をすると、 より となり、周波数オフセットに比例した有限だが消えない静的位相誤差が残ってしまいます。深宇宙リンクのドップラーシフトは(近傍天体でも)数百Hz〜数十kHzに達することがあり、1次ループでは常にこの誤差をループの線形動作範囲内に収める設計上の制約が付きまといます。
ケース2: 一定のドップラーレート(探査機の加速度に対応)。 スイングバイや軌道変更のように、相対速度自体が時間とともに変化する(加速度 一定)局面では、受信周波数は時間に比例して変化し続け、位相は時間の2乗に比例します。、ラプラス変換は です。同様に終値定理を適用すると、
今度はゼロにはなりません。しかし重要なのは、この誤差が時間とともに発散せず、 という有限な値に落ち着くという事実です。もし積分器が1つしかない1次ループでこの入力を与えると、位相誤差は時間とともに際限なく増大し、やがて を超えてロックを失います(サイクルスリップ、後述)。2次Type-IIループが標準的に採用されるのは、まさにこの「一定のドップラーレートに対して位相誤差を有限値に押しとどめる」能力があるからです。実務上は、この を許容できる小さい値(ループの線形範囲、目安として数十度以下)に収まるように (したがって )を設計します。
ループSNR・サイクルスリップ・ロック閾値
ループフィルタを通過した後にVCOに影響を与える実効的な雑音の強さは、受信搬送波電力 、片側雑音スペクトル密度 、ループ雑音帯域幅 を使ってループSNR
として定義されます。線形近似()のもとでは、位相誤差の分散は近似的に
で与えられます。 が大きいほど(受信電力が強い、あるいは が狭いほど)位相誤差のばらつきは小さくなり、追尾は安定します。
しかし が低下すると、雑音によるランダムな位相のゆらぎが ラジアンを超える瞬間が現れ始めます。位相検波器の特性 は で符号が反転するため、この瞬間にループは「間違った方向」に補正をかけてしまい、VCOの位相が受信搬送波に対して (1サイクル)分ずれてロックし直す、という現象が起こります。これをサイクルスリップ (cycle slip) と呼びます。サイクルスリップが起きると、それまで積算してきたドップラー位相・測距位相の連続性が失われ、精密な軌道決定データとしては使えなくなってしまいます。
サイクルスリップの平均発生間隔はループSNRに対して指数関数的に増加することが知られており(Viterbiらによる古典的な近似式)、実務上は がある閾値(典型的には 10 dB 前後、運用マージンを含めるとそれ以上)を下回らないように、受信電力の見積もりに応じて の設計・切り替えを行います。これが「ロック閾値(threshold)」であり、DSN(Deep Space Network)の運用では、リンクバジェット(受信電力の予算計算)の中に必ずこのループSNRのマージンが組み込まれます。
実務での使われ方
深宇宙受信機のPLLは、ミッションの信号強度とダイナミクスに応じて を切り替えられるように設計されています。NASA/JPLのDSN局(パラボラアンテナ局)で使われる受信機(Block V Receiver、およびその後継のデジタル受信機)では、公称ループ帯域幅として数Hzから数十Hz程度の範囲がミッションプロファイルに応じて選択され、非常に微弱で低ダイナミクスなミッション(外惑星探査機など)ではより狭い帯域幅、打ち上げ直後や近地球フェーズのように大きなドップラーレートが予想される局面ではより広い帯域幅が使われます。この設計思想はDSN Telecommunications Link Design Handbook (810-005) の搬送波トラッキングに関するモジュールに詳細に規定されています。
PLLの応用としてもう1つ重要なのがドップラー計測による軌道決定 (Orbit Determination, OD) です。VCOがロックすると、その発振周波数は受信搬送波の周波数(探査機の送信周波数がドップラーシフトを受けたもの)に一致します。地上局は自局の周波数基準(水素メーザーなどの高安定発振器)と比較することでこのドップラーシフトを高精度に測定し、視線方向の相対速度(レンジレート)を数十 m/s〜mm/s オーダーの精度で導出します。この観測量は、探査機の軌道決定、惑星の重力場推定、さらには一般相対性理論の検証実験などに使われてきました(たとえばカッシーニ探査機を用いた太陽重力場によるシャピロ遅延測定など)。PLLがなければ、この精密なドップラー計測そのものが成立しません。
さらに、次回扱うトランスポンダでは、探査機側にもPLLが搭載され、地上から送られてきたアップリンク搬送波にコヒーレント(位相同期)にダウンリンク搬送波を生成する「コヒーレントターンアラウンド」という仕組みが登場します。この場合、地上局PLLだけでなく、探査機PLLの追尾特性もリンク全体のドップラー精度に影響してきます。
演習問題
- ダンピング係数 、自然角周波数 (つまり Hz)の2次PLLについて、ループ雑音帯域幅 を計算してください。公式 を使うこと。
- 受信搬送波電力 dBm、雑音スペクトル密度 dBm/Hz のリンクで、問1のループ帯域幅 を使ってループSNR をdBで求めてください。この値がロック維持の目安(10 dB程度)を上回っているか判定してください。
- あるスイングバイ運用中、探査機のドップラーレートが Hz/s であったとします。 の2次Type-IIループを使う場合、定常位相誤差 をラジアンおよび度で求めてください。この値はループの線形近似(、目安としてゆるく見て 程度)の範囲内に収まっているか議論してください。
- なぜ1次ループ(積分器が1つしかないループ)は、深宇宙探査機の一定速度によるドップラーシフトに対して静的位相誤差を残してしまうのか、また2次Type-IIループがこの問題をどう解決するのかを、この回で導出した終値定理の結果を踏まえて自分の言葉で説明してください。
まとめと次回予告
PLLは、位相検波器・ループフィルタ・VCOという3つの単純な部品を負帰還でつなぐだけで、雑音に埋もれた微弱な残留搬送波を見失わずに追尾し続けるという離れ業をやってのけます。2次Type-IIループが深宇宙受信機の標準になっているのは、終値定理で確認した通り、一定のドップラーシフトに対して定常位相誤差をゼロにでき、ドップラーレートに対しても誤差を有限値に押しとどめられるからです。そしてループ帯域幅 という1つの設計パラメータが、「弱い信号への耐性」と「ダイナミクスへの追従性」というトレードオフを支配していることも見ました。
次回は、この受信機側PLLの話を探査機側に拡張し、トランスポンダと呼ばれる探査機搭載機器が、地上から受信したアップリンク搬送波にPLLで同期しながら、正確な周波数比でダウンリンク搬送波を折り返し送信する「コヒーレントターンアラウンド」の仕組みを扱います。これにより、地上局の高安定な周波数基準を使って探査機の速度を極めて高精度に測定できるコヒーレントドップラーという技術が実現します。
参考文献
- F. M. Gardner, Phaselock Techniques, 3rd ed., Wiley
- A. J. Viterbi, Principles of Coherent Communication, McGraw-Hill
- DSN Telecommunications Link Design Handbook, DSN No. 810-005 (Carrier Tracking / Loop Design に関するモジュール)
- J. H. Yuen (ed.), Deep Space Telecommunications Systems Engineering, JPL Publication 82-76
- CCSDS 401.0-B, Radio Frequency and Modulation Systems, Part 1: Earth Stations and Spacecraft