変調・符号化#3

変調損失とリンクバジェット — 搬送波とデータへの電力配分を最適化する

変調指数Δでトレードオフされる搬送波電力とデータ電力を、リンクバジェット方程式の中に正式に位置づける。変調損失・キャリアループSNR・データEb/N0を数式で結びつけ、Δの最適化問題として定式化する。

前提知識: pcm-psk-pmpll

リンク設計変調損失リンクバジェットEb/N0CCSDS

この回で学ぶこと

PCM/PSK/PMの回で、変調指数 Δ\Delta を使ってPM変調をかけると、送信電力 PTP_T が残留搬送波側に PTcos2ΔP_T\cos^2\Delta、データ側波帯に PTsin2ΔP_T\sin^2\Delta という形で配分されることを見ました。そしてPLLの回では、その残留搬送波を地上局のPLLが雑音の中から追尾し続けるために、ループ雑音帯域幅 BLB_L とループSNR ρL\rho_L という概念を導入しました。

この2つの回はそれぞれ「変調」と「追尾」という別々の視点から Δ\Delta に触れていましたが、実は同じ1つのリソース(送信電力)の奪い合いを別の角度から見ていただけです。搬送波に電力を割けば割くほどPLLのロックは安定しますが、その分だけデータに使える電力は減っていく。逆にデータに電力を集中させればビット誤り率は下がりますが、搬送波が痩せてPLLがロックを維持できなくなり、そもそも復調自体が成立しなくなります。

この回では、この電力配分のトレードオフを変調損失 (modulation loss) として正式に定式化し、深宇宙通信のリンク設計全体を貫くリンクバジェット方程式の中にきちんと位置づけます。最終的には、Δ\Delta を「搬送波ループSNRとデータEb/N0E_b/N_0のどちらを優先するか」を調整するための設計パラメータとして扱い、実際の数値例でリンクバジェットを組み立てられるようになることを目標にします。

直感的導入

まず全体像を言葉で掴みましょう。探査機から送信される電波は、地球に届くまでに信号強度がとてつもなく減衰します(自由空間の広がりだけで100 dBを優に超える減衰です)。地上局のアンテナがそれを受信し、受信機の中で最終的に「1ビットあたりどれだけの信号エネルギーが、どれだけの雑音密度に対して得られているか」という比 Eb/N0E_b/N_0 に帰着させて、通信が成立するかどうかを判定します。

このとき、送信側から受信側に至るまでの経路には、電力を「目減り」させる要因がいくつも存在します。自由空間を伝搬する際の幾何学的な広がりによる損失(自由空間損失)、大気やケーブルでの吸収、アンテナの指向誤差、そして今回のテーマである変調方式そのものに起因する損失です。

変調損失は他の損失と少し性質が違います。自由空間損失や大気減衰は「望まずに失われる」損失ですが、変調損失は「望んで(トレードオフとして)発生させる」損失です。なぜなら、PCM/PSK/PM方式では意図的に送信電力の一部を残留搬送波側に振り向けているからです。この振り向けた分は、データ検出という観点から見れば「使われなかった電力」であり、これがそのままデータ側の Eb/N0E_b/N_0 を悪化させます。しかし、その振り向けた電力がなければPLLはそもそもロックできず、復調の土台そのものが崩れてしまいます。つまり変調損失とは、**「搬送波を追尾可能な状態に保つために、意図的にデータへの電力配分を犠牲にする代償」**なのです。

この回では、この代償を定量化し、リンクバジェット全体の中でどう扱うかを見ていきます。

リンクバジェット方程式

深宇宙リンクの設計は、最終的に受信機で得られる「1ビットあたりのエネルギー対雑音密度比」Eb/N0E_b/N_0 が、要求されるビット誤り率を満たすのに十分かどうかを検証する作業に帰着します。この検証の骨格となるのがリンクバジェット方程式です。まず、キャリア(搬送波)を含めた受信信号全体について、受信電力対雑音密度比を考えます。

PRN0=EIRPLpath+GTk[dB表記、各項はdB或いはdB(単位)]\frac{P_R}{N_0} = EIRP - L_{path} + \frac{G}{T} - k \quad \text{[dB表記、各項はdB或いはdB(単位)]}

各項の意味を順に確認します。

  • EIRPEIRP (Effective Isotropic Radiated Power, 等価等方輻射電力): 探査機の送信機出力にアンテナ利得を加えたもので、「もし全方位に均等に電波を放射する理想アンテナだったとしたら、どれだけの電力が必要か」を表す等価的な量です。dBW(1Wを基準としたdB)で表されます。
  • LpathL_{path} (経路損失, path loss): 電波が探査機から地球まで伝搬する間に幾何学的な広がりによって失う電力の割合。次節で詳しく導出します。
  • G/TG/T (G/T比, ジー・オーバー・ティー): 地上局の受信性能を1つの数値にまとめたもので、アンテナ利得 GG を、受信系全体の雑音温度 TsysT_{sys} で割ったものです(dB/K)。GG が大きいほど微弱な信号を集められ、TsysT_{sys} が小さいほど受信機自身が生み出す雑音が少ない、という2つの性能を同時に表しています。
  • kk (ボルツマン定数): k=1.38×1023k = 1.38 \times 10^{-23} J/K で、dB表記では 10log10k228.610\log_{10}k \approx -228.6 dBW/K/Hz です。式の中で k-k として引かれているのは、G/TG/T の単位系の中に暗黙に含まれる熱雑音密度 N0=kTsysN_0 = kT_{sys} の変換を明示的に行うためで、結果として PR/N0P_R/N_0 という「電力対雑音密度比」の単位(dB-Hz)に揃えます。

この PR/N0P_R/N_0 は、探査機からの受信電力全体(搬送波成分とデータ側波帯成分を合わせた全電力)を雑音密度で割ったものです。ここまではまだ「変調方式によって電力がどう配分されているか」という情報は入っていません。ここからが今回の本題です。

自由空間損失の導出

リンクバジェットの中で最も支配的な損失項である自由空間損失 LpathL_{path} を導出しておきましょう。送信アンテナから距離 dd だけ離れた点での電力密度を考えます。送信機が等方(全方位均等)に電力 PTP_T を放射すると仮定すると、半径 dd の球面全体にその電力が広がるので、単位面積あたりの電力密度は

S=PT4πd2S = \frac{P_T}{4\pi d^2}

です。受信アンテナは実効開口面積 AeA_e を持ち、そこに入射する電力密度を集めて受信電力に変換します。

PR=SAe=PTAe4πd2P_R = S \cdot A_e = \frac{P_T A_e}{4\pi d^2}

ここでアンテナの実効開口面積と利得の関係式 G=4πAe/λ2G = 4\pi A_e/\lambda^2(波長 λ\lambda)を使って Ae=Gλ2/(4π)A_e = G\lambda^2/(4\pi) を代入すると、

PR=PTGT(λ4πd)2GRP_R = P_T \cdot G_T \cdot \left(\frac{\lambda}{4\pi d}\right)^2 \cdot G_R

という、送受信双方のアンテナ利得 GT,GRG_T, G_R と距離 dd、波長 λ\lambda が現れる形(フリスの伝達公式)が得られます。このうち、送受信機の性能に依存しない、幾何学的な広がりだけによる減衰分

Lpath=(4πdλ)2L_{path} = \left(\frac{4\pi d}{\lambda}\right)^2

自由空間損失と呼びます。dB表記では

Lpath[dB]=20log10(4πd)20log10λL_{path}\,[\text{dB}] = 20\log_{10}(4\pi d) - 20\log_{10}\lambda

です。地球-火星間の平均距離程度(d2.25×1011d \approx 2.25 \times 10^{11} m)、Xバンド(f=8.4f = 8.4 GHz、λ=c/f3.57\lambda = c/f \approx 3.57 cm)を例に取ると、LpathL_{path} はおよそ 278278 dB という桁の値になります。送信電力がわずか数十Wのオーダーであることを踏まえると、これがいかに巨大な減衰であるかが分かります。深宇宙通信のリンク設計が、アンテナ利得(パラボラの大きさ)と受信系雑音温度の最適化に心血を注ぐ理由が、この数値からも見て取れます。

変調損失: sin2Δ\sin^2\Delta を差し引く

PCM/PSK/PMの回で導いたように、変調指数 Δ\Delta のPM変調では、全送信電力 PTP_T

Pcarrier=PTcos2Δ,Pdata=PTsin2ΔP_{\text{carrier}} = P_T\cos^2\Delta, \qquad P_{\text{data}} = P_T\sin^2\Delta

の2つに配分されます。リンクバジェット方程式で得られる PR/N0P_R/N_0 は探査機からの受信電力全体(この2つの和)を基準にしているので、データ検出に実際に使える電力を考える際には、この配分比を明示的に掛け合わせる必要があります。この操作を変調損失 (modulation loss) と呼び、

Lmodsin2ΔL_{mod} \equiv \sin^2\Delta

あるいはdB表記で

Lmod[dB]=10log10(sin2Δ)L_{mod}\,[\text{dB}] = 10\log_{10}(\sin^2\Delta)

と定義します(Δ<π/2\Delta < \pi/2 の範囲では sin2Δ<1\sin^2\Delta < 1 なので LmodL_{mod} は負の値、つまり「損失」として効きます)。この定義を使うと、データ側で実際に得られる実効的な Eb/N0E_b/N_0 は、リンクバジェットで求めた PR/N0P_R/N_0 から、変調損失分を差し引き、ビットレート RbR_b で規格化する形で得られます。

EbN0data=PRN0+Lmod[dB]10log10Rb=PTsin2ΔN01Rb\frac{E_b}{N_0}\bigg|_{\text{data}} = \frac{P_R}{N_0} + L_{mod}\,[\text{dB}] - 10\log_{10}R_b = \frac{P_T\sin^2\Delta}{N_0}\cdot\frac{1}{R_b}

(2番目の等号は真数表記に戻した場合の直接的な確認です。PRPTP_R \approx P_T とみなせる場合、PRsin2Δ/N0P_R\sin^2\Delta/N_0RbR_b で割ったものがまさに1ビットあたりのデータエネルギー対雑音密度比になっています。)

ここで注意したいのは、変調損失は「電力が物理的に消えてなくなる」損失ではないという点です。PTcos2ΔP_T\cos^2\Delta の分は依然として電波として送信され、地上局に届いています。ただしそれは残留搬送波というデータを運ばない成分として使われているため、データ検出という目的から見れば利用できない電力として扱われる、という意味での「損失」です。この点は、大気吸収や指向誤差のような物理的に電力が失われる損失と区別して理解しておく必要があります。

キャリアループSNRとの結合 — Δの最適化問題

一方、PLLの回で導入したキャリアループSNRは、残留搬送波の電力 Pcarrier=PTcos2ΔP_{\text{carrier}} = P_T\cos^2\Delta を使って

ρL=PTcos2ΔN0BL\rho_L = \frac{P_T\cos^2\Delta}{N_0 B_L}

と書けます(BLB_L はPLLのループ雑音帯域幅)。この式とデータ側の Eb/N0E_b/N_0 の式を並べて見ると、両者が同じ PT/N0P_T/N_0 という「元手」を、cos2Δ\cos^2\Deltasin2Δ\sin^2\Delta という相補的な重みで奪い合っていることが一目瞭然です。

ρLcos2Δ,EbN0datasin2Δ\rho_L \propto \cos^2\Delta, \qquad \frac{E_b}{N_0}\bigg|_{\text{data}} \propto \sin^2\Delta

つまり Δ\Delta を大きくする(π/2\pi/2 に近づける)とデータ側の Eb/N0E_b/N_0 は改善しますが、ρL\rho_L が下がってPLLのロックが不安定になります。逆に Δ\Delta を小さくするとPLLは安定しますが、データレートを上げられなくなります。これはリンク設計における典型的な制約付き最適化問題として定式化できます。

maxΔ EbN0data(Δ)s.t.ρL(Δ)ρL,min\max_{\Delta} \ \frac{E_b}{N_0}\bigg|_{\text{data}}(\Delta) \quad \text{s.t.} \quad \rho_L(\Delta) \ge \rho_{L,\min}

ここで ρL,min\rho_{L,\min} は、PLLの回で触れたサイクルスリップを実用上無視できる水準に抑えるための下限値(典型的には10 dB程度、運用マージンを見込むとそれ以上)です。この制約条件は等号で満たすのが最適(それより Δ\Delta を大きくすればループSNRが不足し、小さくすればデータ電力を無駄に搬送波側に残すことになる)なので、実務上は

ρL(Δ)=ρL,min\rho_L(\Delta^\ast) = \rho_{L,\min}

を満たす Δ\Delta^\ast を求め、それがデータレート要求と両立するかを検証する、という手順でリンク設計が進みます。典型的な深宇宙ミッションで Δ\Delta が0.8〜1.3 rad程度の範囲に収まっているのは、まさにこの最適化の結果として、搬送波トラッキングの安定性とデータスループットのバランスが取れる領域がこのあたりにあるからです。

積み重なる他の損失項

ここまで変調損失 Lmod=sin2ΔL_{mod}=\sin^2\Delta を中心に見てきましたが、実際のリンクバジェットにはこれ以外にも複数の損失項が積み重なります。代表的なものを挙げておきます。

  • サブキャリア波形損失 (subcarrier waveform loss): PCM/PSK/PMではデータがいったんサブキャリアの位相に乗せられますが、サブキャリアが理想的な正弦波ではなく方形波(矩形波)である場合、その高調波成分にエネルギーが分散してしまい、基本波成分だけを見るとわずかにエネルギーが目減りします。この損失は通常1 dB未満ですが、精密なリンクバジェットでは無視できません。
  • ビット同期損失 (bit sync loss / bit timing jitter loss): 受信機がビット境界のタイミングを完全に一致させられず、わずかなタイミング誤差(ジッタ)が残ることによる相関検出の劣化。
  • 量子化損失・アナログ-デジタル変換損失: 受信信号をデジタル処理する際のADC分解能や量子化ステップに起因する損失。
  • フィルタ帯域制限損失 (intersymbol interference loss): 送受信フィルタの帯域が有限であることによる符号間干渉(ISI)由来の劣化。これは後のISI/アイダイアグラムの回で詳しく扱います。
  • 符号化損失の裏返しとしての符号化利得: 畳み込み符号やリード・ソロモン符号などの誤り訂正符号を使うと、逆に Eb/N0E_b/N_0 の要求値を緩和できる「符号化利得」が得られます。これは損失ではなく利得ですが、リンクバジェットの中では同じ式の中に(符号なしの場合との差分として)組み込まれます。

これらはそれぞれ小さな値(多くは1 dB未満)ですが、リンクバジェットではdB表記のまま単純に加算(あるいは減算)していくため、実務ではリンクバジェット表と呼ばれる、行に各利得・損失項を並べた表形式で管理されるのが一般的です。変調損失はこの表の中でも比較的大きな値(Δ=1.1\Delta=1.1 rad なら約 0.9-0.9 dB)を持つ主要項の1つとして扱われます。

具体的なリンクバジェット数値例

ここまでの式を使って、簡略化した数値例でリンクバジェットを組み立ててみます(実際のミッション設計ではさらに多くのマージン項が入りますが、ここでは骨格を示します)。

前提条件(火星探査機を想定した概算値):

  • EIRP=20log10(PT)+GTEIRP = 20\log_{10}(P_T) + G_T で、送信電力 PT=20P_T = 20 W (13.013.0 dBW)、送信アンテナ利得 GT=45G_T = 45 dBiとすると、EIRP58.0EIRP \approx 58.0 dBW
  • 距離 d=2.25×1011d = 2.25\times 10^{11} m(火星平均距離程度)、Xバンド λ3.57\lambda \approx 3.57 cm より Lpath278L_{path} \approx 278 dB
  • 地上局(DSN 34 mアンテナ相当)の G/T45G/T \approx 45 dB/K
  • kk の寄与 10log10k228.6-10\log_{10}k \approx 228.6 dB

これらをリンクバジェット方程式に代入すると、

PRN0=58.0278+45+228.6=53.6 dB-Hz\frac{P_R}{N_0} = 58.0 - 278 + 45 + 228.6 = 53.6\ \text{dB-Hz}

これが探査機からの受信電力全体(搬送波+データ)を雑音密度で割った値です。ここに変調損失を適用します。Δ=1.1\Delta = 1.1 rad のとき、sin2(1.1)0.794\sin^2(1.1) \approx 0.794、dB表記で Lmod1.0L_{mod} \approx -1.0 dB です。データレート Rb=4R_b = 4 kbps(10log10Rb36.010\log_{10}R_b \approx 36.0 dB-Hz)とすると、

EbN0data=53.61.036.0=16.6 dB\frac{E_b}{N_0}\bigg|_{\text{data}} = 53.6 - 1.0 - 36.0 = 16.6\ \text{dB}

さらにサブキャリア波形損失(方形波サブキャリアで約 0.9-0.9 dB、8/π28/\pi^2 倍に相当)やビット同期損失(約 0.3-0.3 dB)などを積み重ねると、実際に検出器が使える実効 Eb/N0E_b/N_0 はこれよりさらに1〜2 dB程度低い値になります。一方、要求されるビット誤り率(たとえば Pb=105P_b=10^{-5})を満たすのに必要な理論的な Eb/N0E_b/N_0 は(PCM/PSK/PMの回のBPSK誤り率の式から)約9.6 dBなので、この例では十分なマージン(数dB程度)が確保できていることになります。逆に、Δ\Delta を大きくしすぎてキャリアループSNR ρL\rho_L が不足すれば、いくらデータ側の Eb/N0E_b/N_0 に余裕があっても、そもそもPLLがロックできずリンク自体が成立しません。リンクバジェットは常にこの両輪(データ検出とキャリア追尾)を同時にチェックする必要がある、というのが今回の核心です。

実務での使われ方

NASAのDSN Telecommunications Link Design Handbook (DSN No. 810-005) には、この変調損失を含むリンクバジェットの計算モジュールが体系的にまとめられており、ミッション設計者はこのハンドブックの標準フォーマットに沿ってリンクバジェット表を作成します。変調損失の項は、変調指数 Δ\Delta の関数として明示的に一行にまとめられ、他の損失項(大気減衰、指向誤差、偏波損失など)と並んで加算されます。

実際の運用では、ミッションフェーズによって Δ\Delta を切り替える設計判断が広く行われています。

  • 打ち上げ直後・軌道投入・惑星着陸などのクリティカルフェーズでは、テレメトリの詳細なデータレートよりも「探査機が確実に生きていて、この方向にいる」ことを地上局が確実に把握できる方が優先されます。このため Δ\Delta を小さめに設定し(cos2Δ\cos^2\Delta を大きく)、搬送波電力を厚くしてキャリアループSNR ρL\rho_L に大きなマージンを持たせます。
  • **定常運用フェーズ(クルーズフェーズ、科学観測フェーズ)**では、探査機の状態は十分に把握できているため、Δ\Delta を大きめに調整してデータ側波帯に電力を多く回し、科学データやテレメトリのスループットを最大化します。
  • 太陽合(太陽が探査機と地球の間に入り、太陽コロナの雑音でリンクが劣化する時期) など、リンクマージンが乏しくなる局面でも、データレートを一時的に下げつつ Δ\Delta を再調整して搬送波トラッキングを優先することがあります。

ボイジャー、カッシーニ、はやぶさなど多くの深宇宙ミッションの運用シーケンスには、こうした Δ\Delta (あるいは変調度)の切り替えコマンドがフライトプランに明示的に組み込まれています。これは変調損失とキャリアループSNRのトレードオフが、単なる理論上の概念ではなく、実際のミッション運用計画に直接反映される設計パラメータであることを示しています。

演習問題

  1. 変調指数 Δ=0.9\Delta = 0.9 rad のとき、変調損失 Lmod=sin2ΔL_{mod} = \sin^2\Delta をdB表記で計算してください。また同じ Δ\Delta でのキャリア電力比 cos2Δ\cos^2\Delta (dB表記)も求め、両者の和が0 dBにならないことを確認し、その理由を説明してください(ヒント: dBは対数なので cos2Δ+sin2Δ=1\cos^2\Delta + \sin^2\Delta=1 の関係は加算では成り立ちません)。

  2. ある探査機のリンクで EIRP=55EIRP = 55 dBW、地球からの距離 d=4×1011d = 4\times 10^{11} m、送信周波数 f=8.4f = 8.4 GHz(Xバンド)、地上局 G/T=42G/T = 42 dB/K とします。まず自由空間損失 LpathL_{path} をdBで求め、次にリンクバジェット方程式を使って PR/N0P_R/N_0 を計算してください(kk の寄与は 10log10k228.6-10\log_{10}k \approx 228.6 dBを使うこと)。

  3. 問2の条件に加えて Δ=1.2\Delta = 1.2 rad、データレート Rb=2R_b = 2 kbpsとします。データ側の実効 Eb/N0E_b/N_0 を求めてください。さらに、地上局PLLのループ雑音帯域幅が BL=10B_L = 10 Hz のとき、キャリアループSNR ρL\rho_L をdBで求め、ロック維持の目安(10 dB程度)を満たしているか判定してください。

  4. なぜミッション運用者は、打ち上げ直後のクリティカルフェーズでは Δ\Delta を小さく、定常運用フェーズでは Δ\Delta を大きく設定するのでしょうか。この回で導出した ρL(Δ)\rho_L(\Delta)Eb/N0data(Δ)E_b/N_0|_{\text{data}}(\Delta) のトレードオフ関係を踏まえて、自分の言葉で説明してください。

まとめと次回予告

この回では、PCM/PSK/PM方式で変調指数 Δ\Delta によって決まる電力配分を、変調損失 Lmod=sin2ΔL_{mod}=\sin^2\Delta という形でリンクバジェット方程式に正式に組み込みました。リンクバジェット方程式 PR/N0=EIRPLpath+G/TkP_R/N_0 = EIRP - L_{path} + G/T - k が探査機から届く電力全体を表す一方、そこから変調損失を差し引くことで初めて、データ検出に使える実効的な Eb/N0E_b/N_0 が得られること。そして、その変調損失の裏側では、搬送波側に配分された電力がキャリアループSNR ρL\rho_L としてPLLの追尾安定性を支えていること。この2つが Δ\Delta という単一のパラメータを通じてトレードオフの関係にあり、実際のミッション運用ではフェーズごとにこのパラメータが調整されていることを見ました。

ここまでの3回で、深宇宙探査機と地上局のあいだで交わされる無線信号が「どう変調されるか」(PCM/PSK/PM)、「どう追尾されるか」(PLL)、そして「その電力配分がリンク設計全体にどう位置づけられるか」(変調損失とリンクバジェット)という基礎を一通り固めました。次回は視点を探査機側に移し、地上から受信したアップリンク搬送波にPLLで同期しながら、正確な周波数比でダウンリンク搬送波を折り返し送信する探査機搭載機器、トランスポンダを扱います。地上局の高安定な周波数基準を使って探査機の速度を極めて高精度に測定する「コヒーレントドップラー」という技術が、このトランスポンダの仕組みの上に成り立っています。

参考文献

  • DSN Telecommunications Link Design Handbook, DSN No. 810-005 (Link Design Control Table および Carrier Tracking モジュール)
  • J. H. Yuen (ed.), Deep Space Telecommunications Systems Engineering, JPL Publication 82-76
  • CCSDS 401.0-B, Radio Frequency and Modulation Systems, Part 1: Earth Stations and Spacecraft
  • J. R. Wertz, D. F. Everett, J. J. Puschell (eds.), Space Mission Engineering: The New SMAD
  • A. J. Viterbi, Principles of Coherent Communication, McGraw-Hill