測距・追跡#5

非再生測距(ターンアラウンド測距) — PN符号をそのまま折り返して距離を測る

地上から送ったPN測距符号を、探査機がコヒーレントに位相同期させたまま「鏡」のように送り返すターンアラウンド(非再生)測距の原理を学ぶ。距離を求める基本式から相関検出による遅延推定、そして往復分の雑音が重畳するという本質的な弱点までを数式で追う。

前提知識: transponder

測距PN符号ターンアラウンドCCSDSSNR

この回で学ぶこと

前回、探査機に搭載されたトランスポンダが、地上から受信したアップリンク搬送波にPLLでコヒーレントに位相同期しながら、決まった周波数比でダウンリンク搬送波を折り返す「コヒーレントターンアラウンド」の仕組みを学びました。これによって、探査機の速度を高精度に測るコヒーレントドップラーが実現することを見ました。

しかし探査機との通信で知りたいのは速度(ドップラー)だけではありません。距離そのものも、軌道決定にとって欠かせない観測量です。そこで使われるのが測距(レンジング)という技術で、その中でも最も古典的かつシンプルな方式が、今回学ぶターンアラウンド測距(turnaround ranging)、別名**非再生測距(non-regenerative ranging)**です。

考え方は驚くほど素朴です。地上局から、ランダムに見えるが実は完全に既知のビット列である擬似雑音(PN)符号を電波に乗せて探査機に送ります。探査機側は、この符号の中身を一切「読まず」、ただ受け取った信号をそのままコヒーレントなダウンリンク搬送波に乗せ替えて送り返します。地上局は、自分が送った符号と、跳ね返ってきた符号を突き合わせることで、電波が往復するのにかかった時間を測り、そこから距離を計算します。

この回では、(1) 往復伝搬時間から距離を求める基本式とその精密化、(2) PN符号の相関検出によって遅延を推定する数式、(3) 測距精度(分散)がSNRとチップレートにどう依存するかの大まかな導出、そして(4) 非再生方式の本質的な弱点である「往復分の雑音がそのまま重畳されてしまう」という現象を数式で確認します。最後の点は、次回学ぶ再生測距がなぜ必要とされるのかを理解する鍵になります。

直感的な導入: PN符号を「鏡」のように送り返す

なぜ距離を測るのに、単純な正弦波ではなくPN符号のような複雑な波形を使うのでしょうか。理由は、PN符号が鋭い自己相関特性を持つからです。ある符号列を、時間的にずらしながら自分自身と掛け合わせて積分すると、ずれがゼロのときだけ大きな値になり、少しでもずれると相関値が急激に小さくなります。この性質のおかげで、「送った波形」と「戻ってきた波形」を突き合わせたときに、往復にかかった時間の遅れを鋭いピークとして検出できます。正弦波1本ではこの「鋭さ」が出せず、遅延をピンポイントで特定できません(この問題を別のアプローチ、複数のトーンの組み合わせで解決する方式を、次々回の**逐次測距(シーケンシャルレンジング)**で扱います)。

ターンアラウンド測距のポイントは、探査機側がこの符号を復号・再構成しないことです。探査機のトランスポンダは、アップリンク搬送波に乗ってきたPN符号変調を、位相ごとコヒーレントにダウンリンク搬送波へ乗せ替えるだけで、符号のビット値を判定するような処理は一切行いません。ちょうど鏡が入射光をそのまま反射するように、受け取った位相変調パターンをそのまま送り返すのです。これが「非再生(non-regenerative)」という名前の由来です(対する「再生(regenerative)」測距では、探査機が符号を一度検出・判定してから、きれいな新しい符号を自分で作り直して送り返します。これは次回のテーマです)。

この「鏡」のような単純さは大きな利点です。探査機側に符号検出・再合成の専用ハードウェアが要らず、トランスポンダにアナログの折り返しチャンネルさえあれば実現できます。しかし後で見るように、この単純さと引き換えに、探査機に届く途中で乗った雑音までそのまま増幅して送り返してしまうという代償を払うことになります。

基本原理: 往復伝搬時間から距離を求める

単純な公式

地上局が時刻 tTXt_{TX} にPN符号のあるエポック(基準点)を送信し、探査機で折り返された同じエポックが時刻 tRXt_{RX} に地上局へ戻ってきたとします。電波は光速 cc で伝搬するので、往復伝搬時間は

τ=tRXtTX\tau = t_{RX} - t_{TX}

であり、地上局と探査機の間の距離(正確には「レンジ」と呼ばれる、光行時間に基づく距離)は

d=cτ2d = \frac{c\,\tau}{2}

で与えられます。往復で 2d2d の距離を進むので2で割る、という中学校レベルの式ですが、深宇宙探査機との距離測定の根幹はまさにこれです。地球から数億km離れた探査機であれば τ\tau は数十分オーダーになり、それでもこの単純な式で数mから数十mの精度が達成できます。

精密な公式: 装置遅延の較正

実際の運用では、上式をそのまま使うと系統誤差が生じます。なぜなら tTXt_{TX}tRXt_{RX} は地上局の基準時計上で測った、電波が局のアンテナ位相中心を実際に出入りした時刻ではなく、送受信機・ケーブル・フィルタなど地上局内部の電子回路を信号が通過する時間も含んでしまっているからです。同様に、探査機のトランスポンダ内部でも、信号が受信アンテナからミキサー・フィルタ・位相変調器を経て送信アンテナに至るまでに、有限のターンアラウンド遅延がかかります。これらを総称して**装置遅延(instrumental delay)**と呼びます。

精密な距離の式は、測定された往復時間から、これらの既知の装置遅延を差し引いた形で書けます。

d=c2[(tRXtTX)τg,txτg,rxτsc]d = \frac{c}{2}\Big[(t_{RX}-t_{TX}) - \tau_{g,\mathrm{tx}} - \tau_{g,\mathrm{rx}} - \tau_{sc}\Big]

ここで τg,tx\tau_{g,\mathrm{tx}}, τg,rx\tau_{g,\mathrm{rx}} は地上局の送信・受信系統内部の遅延(局のケーブル長やアンプの群遅延など、地上でループバック較正試験によって精密に測定される)、τsc\tau_{sc} は探査機トランスポンダのターンアラウンド遅延(打ち上げ前の地上試験で校正され、多くの場合ナノ秒~マイクロ秒オーダーの値が探査機ごとの校正データとして提供される)です。実際の軌道決定ソフトウェア(JPLのODP/MONTEなど)が扱う「レンジ観測量」は、生の往復時間ではなく、この装置遅延をあらかじめ差し引いた値です。装置遅延の校正誤差は、そのまま測距誤差の系統成分として残ってしまうため、ミッション運用ではこの較正作業自体が重要な位置づけを持ちます。

なお、往復時間 τ\tau の間にも探査機は軌道運動を続けているため、この式で求まる dd は厳密には「送信時刻の探査機位置」でも「受信時刻の探査機位置」でもない、光行時間を介した幾何学的な量になります。精密な軌道決定では、この光行時間の効果を反復計算で解く必要がありますが、詳細は軌道決定を扱う回に譲ります。

PN測距符号と相関検出による遅延推定

では実際にどうやって τ\tau(あるいは tRXtTXt_{RX}-t_{TX})を測るのでしょうか。地上局が送信するPN符号を、チップ幅 TcT_c、チップレート Rc=1/TcR_c = 1/T_c±1\pm 1 値の方形波列としてモデル化します。

r(t)=kckp(tkTc),ck{1,+1}r(t) = \sum_{k} c_k\, p(t-kT_c), \qquad c_k \in \{-1,+1\}

p(t)p(t) は幅 TcT_c の矩形パルス、{ck}\{c_k\} は符号長 NN チップで周期的に繰り返される既知のPN系列です(最大長線形帰還シフトレジスタ(LFSR)などで生成され、地上局送信機と相関受信機の双方があらかじめ同じ系列を保持しています)。

この r(t)r(t) をアップリンク搬送波の位相に乗せて送信し、探査機が非再生でそのままダウンリンク搬送波に乗せ替えて送り返すと、地上局で受信・復調して取り出されるベースバンドの測距波形は、往復遅延 τ\tau だけシフトし、雑音 n(t)n(t) が加わった形になります。

y(t)=Ar(tτ)+n(t)y(t) = A\, r(t-\tau) + n(t)

地上局の相関受信機は、自局が生成した符号レプリカ r(t)r(t) を試行遅延 Δ\Delta だけずらしながら、次の相関量を計算します。

Λ(Δ)=1Tint0Tinty(t)r(tΔ)dt\Lambda(\Delta) = \frac{1}{T_{\mathrm{int}}}\int_0^{T_{\mathrm{int}}} y(t)\, r(t-\Delta)\, dt

PN符号は(理想的なランダム系列に近い)鋭い自己相関特性 Rr()R_r(\cdot) を持つため、この積分の期待値は

E[Λ(Δ)]ARr(Δτ)\mathbb{E}[\Lambda(\Delta)] \approx A\, R_r(\Delta - \tau)

となり、Δ=τ\Delta = \tau のときにピークを取り、そこから外れると急速に(理想的な矩形チップの場合はチップ幅 2Tc2T_c の三角形状に)減衰します。つまり Λ(Δ)\Lambda(\Delta) を最大にする Δ\Delta を探すこと、あるいはそれをフィードバックループで自動追尾すること(遅延同期ループ、DLL、PLLが位相を追尾するのと同じ発想を遅延に適用したもの)によって、往復遅延 τ\tau の推定値が得られます。

実際のCCSDS PN測距システムでは、単一のPN符号だけでなく、周期の異なる複数のコンポーネント符号(粗い測距用の長周期・低チップレート成分と、精密測距用の短周期・高チップレート成分の組み合わせ)を階層的に組み合わせて使います。これは、1つの符号だけでは「符号1周期 NTcNT_c に対応する最大距離 cNTc/2cNT_c/2 を超えると距離があいまいになる(距離アンビギュイティ)」問題と、「精密な分解能を得るには短いチップ幅(高チップレート)が必要」という要求が両立しないためです。長周期成分で大まかな距離のあいまいさを解き、短周期・高チップレート成分で精密な値を決める、という段階的な解法が採られます。

測距精度(分散)のおおまかな導出: チップレートとSNRの関係

相関ピークの位置 Δ=τ\Delta=\tau をどれだけ正確に特定できるかは、当然ながら雑音の大きさとチップレート(相関ピークの鋭さ)に依存します。ここでは厳密なクラメール・ラオ限界の導出(それはCramér-Rao限界と測距の回で扱います)ではなく、直感的なオーダー評価を行います。

理想的な矩形チップの自己相関関数はピーク付近で三角形状になり、ピーク値を基準に正規化すると、ピークからの遅延誤差 ε=Δτ\varepsilon = \Delta - \tau に対して

Rr(ε)1εTc,εTcR_r(\varepsilon) \approx 1 - \frac{|\varepsilon|}{T_c}, \qquad |\varepsilon| \le T_c

と近似できます。したがってピーク近傍での相関出力の傾き(PLLの回で見た位相検波器の「線形近似」と同じ発想です)は

dΛdΔΔτATc\left.\frac{d\Lambda}{d\Delta}\right|_{\Delta \to \tau} \approx \mp\frac{A}{T_c}

一方、雑音 n(t)n(t) が両側スペクトル密度 N0/2N_0/2 の白色雑音だとすると、積分時間 TintT_{\mathrm{int}} にわたって r(tΔ)r(t-\Delta)(振幅 ±1\pm1)と相関を取った出力の雑音成分の分散は、標準的な整合フィルタの結果から

σΛ2=N02Tint\sigma_\Lambda^2 = \frac{N_0}{2\,T_{\mathrm{int}}}

となります。信号側のピーク振幅を AA として、積分後の実効SNRを

SNRA2σΛ2=2A2TintN0\mathrm{SNR} \equiv \frac{A^2}{\sigma_\Lambda^2} = \frac{2A^2 T_{\mathrm{int}}}{N_0}

と定義すると(これは受信ランダング信号の総エネルギー対雑音密度比に相当し、第1回で見たBPSKの 2Eb/N02E_b/N_0 と同じ形をしています)、相関出力の雑音による揺らぎ σΛ=A/SNR\sigma_\Lambda = A/\sqrt{\mathrm{SNR}} が、傾き A/TcA/T_c のピーク近傍でどれだけの遅延誤差に換算されるかを考えると、

στσΛdΛ/dΔ=A/SNRA/Tc=TcSNR\sigma_\tau \approx \frac{\sigma_\Lambda}{|d\Lambda/d\Delta|} = \frac{A/\sqrt{\mathrm{SNR}}}{A/T_c} = \frac{T_c}{\sqrt{\mathrm{SNR}}}

という遅延推定の標準偏差が得られます。これを距離の標準偏差に換算すると(d=cτ/2d=c\tau/2 なので)、

σd=c2στcTc2SNR=c2RcSNR\sigma_d = \frac{c}{2}\,\sigma_\tau \approx \frac{c\,T_c}{2\sqrt{\mathrm{SNR}}} = \frac{c}{2 R_c \sqrt{\mathrm{SNR}}}

すなわち分散でみると

σd2c24Rc2SNR\sigma_d^2 \approx \frac{c^2}{4\,R_c^2\,\mathrm{SNR}}

という関係が得られます。ここから読み取れる大事な傾向は2つです。

  • チップレート RcR_c が高いほど(TcT_c が短いほど)測距精度は良くなる(誤差は 1/Rc1/R_c に比例して減る)。これは相関ピークが鋭くなり、わずかな遅延ずれでも相関値が大きく変化するようになるためです。
  • SNRが高いほど精度は良くなるが、その効きは 1/SNR1/\sqrt{\mathrm{SNR}} とゆるやかです(SNRを4倍にしても誤差は半分にしかならない)。

この結果は簡略化された見積もりですが、厳密なクラメール・ラオ限界(信号のRMS帯域幅にもとづく限界式)と定性的に同じ依存性(1/Rc1/R_c1/SNR1/\sqrt{\mathrm{SNR}})を示しており、直感の裏付けとしては十分です。厳密な導出は前述の通り後の回に譲ります。

非再生方式の本質的な弱点: 往復分の雑音重畳

ここまでは、雑音 n(t)n(t) を「地上局受信機に加わる1回分の雑音」として単純化してきました。しかし実際のターンアラウンド測距では、事情はもっと厳しくなります。信号は2回雑音の混じった環境を通過するからです。

モデル化

まず地上局が送信したランダング信号 x(t)x(t)(電力 PxP_x)は、アップリンク経路を通って探査機のトランスポンダに届きます。ここで探査機側の受信機雑音 n1(t)n_1(t)(電力 Pn1P_{n1})が加わります。

y1(t)=x(t)+n1(t),ρupPxPn1y_1(t) = x(t) + n_1(t), \qquad \rho_{\mathrm{up}} \equiv \frac{P_x}{P_{n1}}

ρup\rho_{\mathrm{up}}アップリンクのランダングSNRと呼びます。ここが非再生方式の核心なのですが、探査機のトランスポンダは x(t)x(t) だけを取り出して雑音 n1(t)n_1(t) を捨てる、ということをしません。測距チャンネル全体(信号+雑音)をまとめてゲイン gg で増幅し、そのままコヒーレントなダウンリンク搬送波の位相変調に使います。

ダウンリンクの測距変調=gy1(t)=gx(t)+gn1(t)\text{ダウンリンクの測距変調} = g\,y_1(t) = g\,x(t) + g\,n_1(t)

これが地球に届く間に、今度はダウンリンク経路の雑音 n2(t)n_2(t)(電力 Pn2P_{n2}、地上局の受信機雑音)が新たに加わります。地上局で最終的に相関器に入る信号は、

y2(t)=gx(t)+gn1(t)+n2(t)y_2(t) = g\,x(t) + g\,n_1(t) + n_2(t)

です。ここで、もし探査機からのダウンリンクだけを純粋な信号源(雑音のない x(t)x(t))からの片道リンクとして評価した場合のSNRをダウンリンクのランダングSNRとして

ρdowng2PxPn2\rho_{\mathrm{down}} \equiv \frac{g^2 P_x}{P_{n2}}

と定義します。

SNR往復劣化の式導出

y2(t)y_2(t) における信号電力は g2Pxg^2 P_x、雑音電力は g2Pn1+Pn2g^2 P_{n1} + P_{n2} の2つの成分の和です。したがって地上局の相関器が実際に見る、両方向の雑音を合わせた実効SNR ρ\rho は、

ρ=g2Pxg2Pn1+Pn2\rho = \frac{g^2 P_x}{g^2 P_{n1} + P_{n2}}

この逆数を取って整理すると、

1ρ=Pn1Px+Pn2g2Px=Pn1Px+Pn2/g2Px\frac{1}{\rho} = \frac{P_{n1}}{P_x} + \frac{P_{n2}}{g^2 P_x} = \frac{P_{n1}}{P_x} + \frac{P_{n2}/g^2}{P_x}

ここで Pn1/Px=1/ρupP_{n1}/P_x = 1/\rho_{\mathrm{up}}、また Pn2/(g2Px)=1/ρdownP_{n2}/(g^2 P_x) = 1/\rho_{\mathrm{down}} であることに注意すると(定義に代入すれば直ちに確かめられます)、次の非常にシンプルで重要な関係式が得られます。

 1ρ=1ρup+1ρdown \boxed{\ \frac{1}{\rho} = \frac{1}{\rho_{\mathrm{up}}} + \frac{1}{\rho_{\mathrm{down}}}\ }

これが非再生(ターンアラウンド)測距のSNR往復劣化を表す式です。抵抗の並列合成と同じ形(調和平均的な結合)をしており、次の性質を持ちます。

ρmin(ρup,ρdown)\rho \le \min(\rho_{\mathrm{up}}, \rho_{\mathrm{down}})

すなわち、最終的に得られる実効SNRは、アップリンクとダウンリンクのうち悪い方のSNRによって頭打ちになり、しかも両方の劣化がそのまま積み重なって効いてくるのです。これは、探査機がアップリンクで受け取った雑音まみれの信号を、判定・除去せずにそのまま増幅して送り返してしまう非再生方式に特有の現象です。前節で導いた σd21/SNR\sigma_d^2 \propto 1/\mathrm{SNR} の関係と合わせれば、実効SNR ρ\rho の劣化がそのまま測距精度の劣化に直結することが分かります。

なぜ再生測距が必要になるのか(次回への伏線)

もし探査機が符号を一度検出・判定してから、きれいな符号を自分で作り直して送り返す(再生する)なら話は変わります。判定という非線形操作は、多少のビット誤りを生む代償と引き換えに、雑音 n1(t)n_1(t) を信号 x(t)x(t) から切り離して捨てることができます。すると地上局の相関器が見る雑音は、原理的にはダウンリンク雑音 n2(t)n_2(t) だけになり、実効SNRはおよそ ρdown\rho_{\mathrm{down}} 単体(検出損失の分だけやや割り引かれたもの)に近づきます。これは ρmin(ρup,ρdown)\rho \le \min(\rho_{\mathrm{up}},\rho_{\mathrm{down}}) という非再生方式の上限を突破しうるということを意味します。この仕組みこそが次回学ぶ再生測距の核心であり、非再生方式のこのSNR往復劣化の弱点を克服するために生まれた方式です。

近地球ミッションではなぜ問題にならないか

上の式 1/ρ=1/ρup+1/ρdown1/\rho = 1/\rho_{\mathrm{up}} + 1/\rho_{\mathrm{down}} をよく見ると、劣化が深刻になるのは ρup\rho_{\mathrm{up}}ρdown\rho_{\mathrm{down}} が同程度、あるいは ρup\rho_{\mathrm{up}} の方が悪いときです。逆に、ρupρdown\rho_{\mathrm{up}} \gg \rho_{\mathrm{down}} であれば、

1ρ=1ρup+1ρdown1ρdownρρdown\frac{1}{\rho} = \frac{1}{\rho_{\mathrm{up}}} + \frac{1}{\rho_{\mathrm{down}}} \approx \frac{1}{\rho_{\mathrm{down}}} \quad \Longrightarrow \quad \rho \approx \rho_{\mathrm{down}}

となり、往復劣化はほとんど無視できます。地上局のアップリンク送信機は通常、探査機の送信機よりもはるかに大電力(数kW〜数十kW級)であり、かつ地球近傍・月近傍ミッションでは伝搬距離も短いため、アップリンクのランダングSNR ρup\rho_{\mathrm{up}} はダウンリンクのSNR ρdown\rho_{\mathrm{down}} より桁違いに高くなるのが普通です。これが、非再生測距が今なお現役で使われ続けている実務上の理由です(詳しくは次節)。

実務での使われ方

非再生(ターンアラウンド)PN測距の標準的な仕様は、CCSDS 414.1-B, Pseudo-Noise (PN) Ranging Systems に規定されています。この標準は、粗い測距用の長周期成分符号から精密測距用の高チップレート成分符号までを組み合わせた階層的なコンポーネント符号構成を定義しており、地上局と探査機トランスポンダの両方が対応することで、様々なミッションで共通の測距方式を運用できるようにしています。

歴史的には、非再生のターンアラウンド測距チャンネルは、探査機トランスポンダの標準機能として何十年にもわたって搭載されてきました。ボイジャーの時代から現代の火星探査機・月探査機に至るまで、多くのNASA/JPLの深宇宙探査機が、コヒーレントドップラー測定と同じトランスポンダのターンアラウンド機構を使ってこの非再生測距を実施してきました。DSN(Deep Space Network)の地上局は、測距チャンネルとして数百kHz〜数MHzオーダーの帯域幅を確保しており、これに対応するチップレートのPN符号を使うことで、条件が良ければ1回の測定で数m〜1m程度の距離分解能が得られます(実運用ではこれに加えて、多数回の測定の平均化や装置遅延の較正精度が最終的な精度を左右します)。

非再生方式が今なお選ばれ続けている理由は、前節で導いた 1/ρ=1/ρup+1/ρdown1/\rho = 1/\rho_{\mathrm{up}} + 1/\rho_{\mathrm{down}} という式に集約されます。

  • 地球近傍・月近傍ミッション、あるいは大口径アンテナやハイゲインアンテナで強いダウンリンクが確保できるミッションでは、ρupρdown\rho_{\mathrm{up}} \gg \rho_{\mathrm{down}} となるため、SNRの往復劣化がほぼ無視でき、非再生方式でも十分な測距精度が得られる。
  • 探査機側に追加の測距専用復調・再生ハードウェアが不要であり、既存のトランスポンダのアナログ折り返しチャンネルだけで実現できるため、コスト・質量・消費電力・開発リスクの面で有利。
  • 打ち上げ後長年運用実績があり、地上局・軌道決定ソフトウェアの校正手法も成熟している。

一方で、外惑星探査や太陽系外縁天体探査のように、アップリンクのSNRがダウンリンクと同程度か、それ以下まで悪化しうる遠距離ミッションでは、この往復劣化が測距精度を著しく損なうため、次回学ぶ再生測距や、あるいは測距そのものを行わずドップラーのみで軌道決定を補う設計が選ばれることもあります。

演習問題

  1. ある地上局が時刻 tTX=0t_{TX}=0 にPN符号のエポックを送信し、tRX=2400.000003t_{RX}=2400.000\,003 秒に折り返し信号を受信したとします。地上局の送受信系統内部遅延の合計 τg,tx+τg,rx=200\tau_{g,\mathrm{tx}}+\tau_{g,\mathrm{rx}} = 200 ns、探査機トランスポンダのターンアラウンド遅延 τsc=600\tau_{sc} = 600 ns が事前校正で分かっているとして、探査機までの距離 dd を精密な公式を使って求めてください(c=2.998×108c=2.998\times10^8 m/s)。装置遅延を無視した場合との差(距離換算で何m違うか)も求めてください。

  2. あるミッションで、アップリンクのランダングSNRが ρup=30\rho_{\mathrm{up}} = 30 dB、ダウンリンクのランダングSNRが ρdown=12\rho_{\mathrm{down}} = 12 dB だったとします。真数に直したうえで、非再生方式での実効SNR ρ\rho1/ρ=1/ρup+1/ρdown1/\rho = 1/\rho_{\mathrm{up}}+1/\rho_{\mathrm{down}} から計算し、dBで表してください。ρ\rhoρup\rho_{\mathrm{up}}ρdown\rho_{\mathrm{down}} それぞれとどれだけ離れているか比較し、どちらのリンクが全体のSNRを支配しているか説明してください。

  3. チップレート Rc=2R_c = 2 Mchip/s のPN測距符号を用いており、積分後の実効SNRが SNR=20\mathrm{SNR}=20 dB だったとします。本文で導いた σdc/(2RcSNR)\sigma_d \approx c/(2R_c\sqrt{\mathrm{SNR}}) を使って測距誤差の標準偏差 σd\sigma_d をメートル単位で求めてください。もしチップレートを4倍の 88 Mchip/s にできたら、σd\sigma_d はどう変化しますか。

  4. 問2の状況(ρup=30\rho_{\mathrm{up}}=30 dB, ρdown=12\rho_{\mathrm{down}}=12 dB)で、もし探査機が非再生ではなく理想的な再生測距(アップリンク雑音を完全に切り離し、実効SNRが ρdown\rho_{\mathrm{down}} にほぼ一致する)を行っていたとしたら、実効SNRは何dB改善しますか。この結果をもとに、なぜ遠距離・弱アップリンクのミッションほど再生測距の恩恵が大きいのかを、本文の式を使って自分の言葉で説明してください。

まとめと次回予告

非再生(ターンアラウンド)測距は、探査機トランスポンダが受信したPN符号変調を復号せずそのままコヒーレントなダウンリンク搬送波に乗せ替えて送り返す、非常にシンプルな方式です。地上局は送信符号と折り返し符号の相関のピーク位置から往復伝搬時間 τ\tau を求め、d=cτ/2d=c\tau/2(装置遅延を較正した精密版)によって距離を得ます。相関のピークの鋭さ(チップレート)とSNRが測距精度を決め、大まかには σd1/(RcSNR)\sigma_d \propto 1/(R_c\sqrt{\mathrm{SNR}}) という関係にあることを見ました。

しかしこの方式には本質的な弱点があります。探査機が受信雑音を判定・除去せずそのまま増幅して送り返すため、地上局が最終的に得る実効SNRは 1/ρ=1/ρup+1/ρdown1/\rho=1/\rho_{\mathrm{up}}+1/\rho_{\mathrm{down}} という往復劣化を受け、アップリンクが弱いミッションでは測距精度が大きく損なわれてしまいます。地球近傍・強信号のミッションでは無視できるこの劣化も、深宇宙の遠方探査機では無視できなくなります。

次回は、この弱点を克服する再生測距を扱います。探査機が受信したPN符号を一度検出・判定し、雑音の乗っていないきれいな符号を自分で新たに生成してから送り返すことで、アップリンクの雑音をダウンリンクに持ち越さずに済む仕組みを、検出損失や符号誤り率の議論も交えながら数式で見ていきます。

参考文献

  • CCSDS 414.1-B, Pseudo-Noise (PN) Ranging Systems, Recommended Standard
  • DSN Telecommunications Link Design Handbook, DSN No. 810-005 (Ranging に関するモジュール)
  • J. H. Yuen (ed.), Deep Space Telecommunications Systems Engineering, JPL Publication 82-76
  • S. Butman, U. Timor, “Interplanetary Ranging”, Deep Space Network Progress Report, JPL
  • J. R. Wertz, D. F. Everett, J. J. Puschell (eds.), Space Mission Engineering: The New SMAD