測距・追跡#184

差分ドップラー航法 — 差を取って共通誤差を消し、相対速度を掴む

DDORの『差分で共通系統誤差を打ち消す』発想を、到達時刻ではなく周波数(ドップラー)に適用するとどうなるか。2地上局の差分ドップラーによる角度変化率の測定と、近接する2機の探査機の差分ドップラーによる共通誤差の厳密な相殺を、誤差モデルf_d = f_d^true + δ + εから明示的に導出し、相対航法フィルタへの入力としての使われ方まで追う。

前提知識: トランスポンダ — コヒーレントターンアラウンドとドップラー計測DDOR — 電波干渉法で天球上の角度を測る

差分ドップラー相対航法軌道決定編隊飛行近接運用

この回で学ぶこと

DDORの回で学んだ最大の教訓は、個々の測定値そのものよりも、2つの測定値の「差」のほうがはるかに正確になり得るということでした。2つの地上局で同じ信号の到達時刻を測り、さらに探査機とクエーサーを交互に観測して差を取る。この二重の差分によって、電離層・対流圏遅延や局位置誤差といった、両方の測定に共通して乗る系統誤差が打ち消され、ナノラジアン級の角度精度が生まれるのでした。

この回では、同じ「差分」の発想を、到達時刻ではなく周波数(ドップラーシフト)に適用する技術、すなわち**差分ドップラー(differential Doppler)**を扱います。差を取る対象の選び方によって、この技術は2つの顔を持ちます。

  1. 2つの地上局で同じ探査機のダウンリンクを受信し、受信ドップラーの差を取る構成。探査機の送信周波数の誤差(搭載発振器のオフセットなど)という共通誤差が消え、単一局のドップラーでは原理的に見えにくい**視線直交方向の速度成分(角度変化率)**が観測量として現れます。DDORが「角度」を測る技術だとすれば、こちらは「角度の時間変化率」を測る技術です。
  2. 天球上で近接する2機の探査機(オービタと着陸機、ランデブー中の2機など)のダウンリンクを同じ地上局で受信し、ドップラーの差を取る構成。地上局の周波数基準誤差や伝搬媒質の変動といった共通誤差が消え、2機の相対速度の視線方向成分が、単独測定では到達できない精度で求まります。

いずれの場合も鍵になるのは、測定値を「真値+共通誤差+個別雑音」という形に分解する誤差モデルです。この回では、このモデルから出発して差分演算が何を厳密に消し、何を2\sqrt{2}倍に増やすのかを明示的に計算し、その差分観測量が相対航法フィルタにどう入力されるのかまでを見ていきます。ドップラーそのものの測定原理(トランスポンダのコヒーレントターンアラウンドとTwo-wayドップラー)と、DDORの幾何学は既習として、再導出はせずに参照します。

直感的導入 — なぜ「差」は「個々の値」より正確になれるのか

合唱のピッチ判定にたとえてみましょう。2人の歌い手の音程が合っているかを判定したいとき、それぞれの絶対音高を別々に測って比較する方法と、2人の声を同時に聴いて「うなり(ビート)」を聴き取る方法があります。絶対音高の測定には基準となる音叉の狂いがそのまま乗りますが、うなりの周波数は2人の声のそのものなので、音叉がどれだけ狂っていても影響を受けません。差分ドップラーは、まさにこの「うなりを聴く」測定です。

深宇宙のドップラー計測において「狂った音叉」に相当するのは、たとえば次のような誤差要因です。

  • 探査機搭載発振器の周波数オフセット: One-way運用では、探査機のUSOの周波数が名目値から101110^{-11}101310^{-13}(相対値)ずれているだけで、そのずれがそのままドップラー測定に化けます。Xバンドなら101210^{-12}のずれが約8.4 mHz、速度換算で数百μm/sの誤差に相当し、精密航法には致命的です。
  • 地上局の周波数基準の誤差: 水素メーザーといえども有限の安定度を持ち、そのゆらぎはアップリンク・ダウンリンクの全経路に乗ります。
  • 伝搬媒質の変動: 対流圏の水蒸気ゆらぎ、電離層・太陽コロナのプラズマゆらぎは、搬送波位相をランダムに揺らし、ドップラー雑音の主要因になります。

ここで重要なのは、これらの誤差の多くが2つの受信チャンネルに「共通に」乗るという構造です。同じ探査機を2局で受信すれば、探査機側の発振器誤差は両局の測定に同一に現れます。近接する2機の探査機を同じ局・同じアンテナビームで受信すれば、地上局の基準誤差も、電波が通る大気の経路もほぼ共通です。共通に乗るものは、差を取れば消える——これがDDORから引き継ぐ発想であり、差分ドップラー航法の出発点です。

ただし、タダで得られるものはありません。差を取ると、各チャンネルに独立に乗る熱雑音は打ち消されずに合成され、雑音の標準偏差は2\sqrt{2}倍になります。また、共通誤差と一緒に「共通の真値」も消えるため、差分観測量からは絶対的な速度は分からず、差の情報(相対速度、角度変化率)だけが残ります。差分ドップラーとは、絶対情報と引き換えに、系統誤差から解放された相対情報を高精度で買う取引なのです。

数式による定式化

単一チャンネルのドップラー誤差モデル

まず土台となる誤差モデルを立てます。ある受信チャンネル(局と探査機のペア)iiで測定されるドップラー観測量(受信周波数から名目周波数を引いた残差)をfd,if_{d,i}と書き、

fd,i=fd,itrue+δ+ϵif_{d,i} = f_{d,i}^{\text{true}} + \delta + \epsilon_i

と分解します。ここで、

  • fd,itruef_{d,i}^{\text{true}}: 幾何学的な相対運動だけで決まる真のドップラーシフト。One-wayならfd,itrue=(fc/c)vis^if_{d,i}^{\text{true}} = -(f_c/c)\,\vec{v}_i\cdot\hat{s}_i(vi\vec{v}_iは探査機速度、s^i\hat{s}_iは局から探査機への視線単位ベクトル、遠ざかる向きが正のとき負のシフト)。
  • δ\delta: 比較対象のチャンネル間で共通の系統誤差。何がδ\deltaに入るかは構成によって変わり、それこそが差分の設計そのものです(次節以降で具体化します)。
  • ϵi\epsilon_i: チャンネルii個別に乗る雑音。受信機の熱雑音による位相測定誤差、そのチャンネル固有の機器位相ノイズなど。平均0、分散σi2\sigma_i^2で、チャンネル間で独立と仮定します。

このモデルの本質は、δ\deltaϵi\epsilon_iの性質の違いです。ϵi\epsilon_iはランダム雑音なので積分時間を延ばせば統計的に減らせますが、δ\deltaは系統誤差なのでいくら積分しても消えず、モデル化して較正するか、差分で消すしかありません。深宇宙航法の精度を最後に律速するのはたいていδ\deltaのほうであり、だからこそ差分が効くのです。

構成1: 2地上局の差分ドップラー — 角度変化率を測る

地上局A, Bが同じ探査機のOne-wayダウンリンク(送信周波数fcf_c)を同時に受信するとします。探査機の送信周波数が搭載発振器の誤差でδsc\delta_{\text{sc}}だけずれているとすると、各局の観測は

fd,A=fccvs^A+δsc+ϵA,fd,B=fccvs^B+δsc+ϵBf_{d,A} = -\frac{f_c}{c}\,\vec{v}\cdot\hat{s}_A + \delta_{\text{sc}} + \epsilon_A, \qquad f_{d,B} = -\frac{f_c}{c}\,\vec{v}\cdot\hat{s}_B + \delta_{\text{sc}} + \epsilon_B

ここでδsc\delta_{\text{sc}}は「同じ探査機の同じ送信器」に由来するので両局に共通です。差を取ると、

Δfdfd,Afd,B=fccv(s^As^B)+(ϵAϵB)\Delta f_d \equiv f_{d,A} - f_{d,B} = -\frac{f_c}{c}\,\vec{v}\cdot(\hat{s}_A - \hat{s}_B) + (\epsilon_A - \epsilon_B)

となり、δsc\delta_{\text{sc}}は厳密に消えます。探査機のUSOがどれだけ狂っていても、その狂いは差分観測量に一切現れません。One-wayドップラーの最大の弱点(搭載発振器精度への依存)が、2局差分によって構造的に取り除かれるわけです。

残った幾何項を見ましょう。2局を結ぶ基線ベクトルをB=RARB\vec{B} = \vec{R}_A - \vec{R}_B(長さ数千km)、探査機までの距離をdd(数億km)とすると、DDORのときと同じ遠方界近似により、2局の視線方向の差は1次のオーダーで

s^As^BBd\hat{s}_A - \hat{s}_B \approx -\frac{\vec{B}_\perp}{d}

と書けます。B\vec{B}_\perpは基線の視線直交成分です。これを代入すると、

ΔfdfccvBd+(ϵAϵB)=fccBdv+(ϵAϵB)\Delta f_d \approx \frac{f_c}{c}\,\frac{\vec{v}\cdot\vec{B}_\perp}{d} + (\epsilon_A - \epsilon_B) = \frac{f_c}{c}\,\frac{B_\perp}{d}\,v_\perp + (\epsilon_A - \epsilon_B)

ここでvv_\perpは探査機速度のB\vec{B}_\perp方向成分、つまり視線直交方向の速度です。単一局のドップラーが視線方向速度vrv_rしか見えないのに対し、2局差分ドップラーは係数B/dB_\perp/d(1 AU彼方で基線8000 kmなら約5×1055\times10^{-5})を通して、視線直交方向の速度に感度を持ちます。係数が小さいぶん感度は視線方向の10410^{-4}10510^{-5}倍程度に薄まりますが、「原理的にゼロだったものが有限になる」ことの価値は、軌道決定の幾何学的弱点(視線直交方向)を直接補強するという点で絶大です。

この観測量はDDORと美しい相補関係にあります。DDORの到達時間差Δτ=Bsinθ/c\Delta\tau = B\sin\theta/cを時間微分するとd(Δτ)/dt=(Bcosθ/c)θ˙\mathrm{d}(\Delta\tau)/\mathrm{d}t = (B\cos\theta/c)\,\dot\thetaであり、2局間の位相差の変化率、すなわち差分ドップラーは

Δfd=fcd(Δτ)dt\Delta f_d = f_c\,\frac{\mathrm{d}(\Delta\tau)}{\mathrm{d}t}

を測っていることになります。つまりDDORが角度θ\thetaそのものを、差分ドップラーが角度変化率θ˙\dot\thetaを測るという関係です。実際、DDOR観測パスでは同じ受信データから遅延(DDOR)と遅延変化率(差分ドップラー、ΔDODとも呼ばれます)の両方を抽出でき、クエーサーとの交互観測によるDelta較正(DDOR参照)も同様に適用されて、媒質・局位置由来の共通誤差がさらに除去されます。

構成2: 近接する2機の探査機の差分ドップラー — δの明示的な消去

次に、この回の主役である2機構成です。火星周回オービタと地表の着陸機、あるいはランデブー中の2機の探査機のように、2機が天球上で十分近接しており、同じ地上局の同じアンテナビームに同時に収まっているとします(34 mアンテナのXバンドビーム幅は約0.06°で、地球から見た火星系全体が余裕で収まります)。両機のダウンリンクを同一受信系で同時に受け、それぞれのドップラーfd,1,fd,2f_{d,1}, f_{d,2}を測ります。

このとき、誤差モデル

fd,i=fd,itrue+δ+ϵi(i=1,2)f_{d,i} = f_{d,i}^{\text{true}} + \delta + \epsilon_i \qquad (i = 1, 2)

における共通誤差δ\deltaの中身は、構成1とは異なり地上側と経路に共通するすべてです。

  • 地上局の周波数基準(水素メーザー)のオフセット・ゆらぎ。Two-way/Three-wayコヒーレント運用なら、同じ局のアップリンク基準誤差が両機のターンアラウンドを通して同一に現れます。
  • 対流圏・電離層による位相変動。2機の電波はほぼ同じ大気経路を通るため、媒質ゆらぎはほぼ共通です。
  • 局位置・地球回転モデルの誤差が視線方向速度に射影される成分。
  • 受信系共通の機器ドリフト。

差分観測量を作ると、

Δfdfd,1fd,2=(fd,1true+δ+ϵ1)(fd,2true+δ+ϵ2)=(fd,1truefd,2true)+(ϵ1ϵ2)\Delta f_d \equiv f_{d,1} - f_{d,2} = \left(f_{d,1}^{\text{true}} + \delta + \epsilon_1\right) - \left(f_{d,2}^{\text{true}} + \delta + \epsilon_2\right) = \left(f_{d,1}^{\text{true}} - f_{d,2}^{\text{true}}\right) + (\epsilon_1 - \epsilon_2)

δ\deltaは、その大きさや時間変動によらず代数的に厳密に消えます。較正やモデル化の精度に依存しないこの「厳密さ」が差分の強みです。統計量で書けば、

E[Δfd]=fd,1truefd,2true,Var[Δfd]=σ12+σ22\mathbb{E}[\Delta f_d] = f_{d,1}^{\text{true}} - f_{d,2}^{\text{true}}, \qquad \mathrm{Var}[\Delta f_d] = \sigma_1^2 + \sigma_2^2

すなわち差分観測量は相対ドップラーの不偏推定量であり、その雑音はσ1=σ2=σϵ\sigma_1 = \sigma_2 = \sigma_\epsilonなら2σϵ\sqrt{2}\,\sigma_\epsilonです。単独チャンネルの誤差がσϵ2+σδ2\sqrt{\sigma_\epsilon^2 + \sigma_\delta^2}(σδ\sigma_\deltaδ\deltaの実効的な大きさ)であることと比べると、σδσϵ\sigma_\delta \gg \sigma_\epsilonである限り差分は圧倒的に有利です。実際の深宇宙リンクでは、熱雑音由来のσϵ\sigma_\epsilonが60秒積分でサブmHz(速度換算で数μm/s)なのに対し、較正しきれない対流圏ゆらぎや基準ゆらぎのσδ\sigma_\deltaはその数倍から数十倍に達し得るため、この条件はよく成り立ちます。

残った真値の差を幾何で書き下ろします。2機が近接しているので視線方向はほぼ共通(s^1s^2s^\hat{s}_1 \approx \hat{s}_2 \approx \hat{s})とみなせて、One-way相当の表式で

fd,1truefd,2true=fcc(v1s^1v2s^2)fcc(v1v2)s^=fccΔvrf_{d,1}^{\text{true}} - f_{d,2}^{\text{true}} = -\frac{f_c}{c}\left(\vec{v}_1\cdot\hat{s}_1 - \vec{v}_2\cdot\hat{s}_2\right) \approx -\frac{f_c}{c}\,(\vec{v}_1 - \vec{v}_2)\cdot\hat{s} = -\frac{f_c}{c}\,\Delta v_r

つまり差分ドップラーは、**2機の相対速度ベクトルΔv=v1v2\Delta\vec{v} = \vec{v}_1 - \vec{v}_2の視線方向成分Δvr\Delta v_r**の直接測定になります(Two-wayコヒーレントなら係数が2fc/c2f_c/cになるのはトランスポンダの回の通りです)。ランデブーや編隊飛行で知りたいのはまさに機体間の相対運動ですから、これは目的の物理量をほぼ直接測る観測量です。数値感覚として、Xバンド(fc=8.4f_c = 8.4 GHz)ではOne-way換算で11 m/sの相対視線速度が約28 Hzの差分ドップラーに対応し、雑音2σϵ0.14\sqrt{2}\,\sigma_\epsilon \approx 0.14 mHz(60秒積分)なら相対速度精度は約5 μm/sに達します。

なお注意点がひとつあります。δ\deltaに入るのは「両チャンネルに共通の誤差」だけです。2機がそれぞれ自前のUSOでOne-way送信している場合、各機の発振器誤差は共通ではなくϵi\epsilon_i側の系統成分として残ってしまい、差分では消えません。これを避けるには、(a) 両機とも同じ地上局からのアップリンクにコヒーレントにロックさせる(Two-way/Three-way構成。探査機側の基準誤差がそもそも存在しない)、(b) 2機間の直接リンク(クロスリンク)で互いに測り合い、双方向のOne-way測定を足し合わせて両機の発振器誤差を相殺する(dual one-way方式)、のいずれかの設計が必要です。後者は月重力場マッピングのGRAILや地球重力場のGRACE系ミッションの衛星間測距で使われている、差分の発想のもうひとつの応用形です。

相対航法フィルタへの入力

差分ドップラーΔfd\Delta f_dは、それ単独では相対速度の視線方向1成分しか与えません。3次元の相対軌道を決めるには、この観測量を時系列として相対航法フィルタ(拡張カルマンフィルタEKFやバッチ最小二乗)に流し込みます。

推定したい状態を2機の相対位置・相対速度Δx=[Δr; Δv]R6\Delta\vec{x} = [\Delta\vec{r};\ \Delta\vec{v}] \in \mathbb{R}^6とすると、観測方程式は

zk=h(Δxk)+νk,h(Δx)=fccΔvs^,νkN(0, σ12+σ22)z_k = h(\Delta\vec{x}_k) + \nu_k, \qquad h(\Delta\vec{x}) = -\frac{f_c}{c}\,\Delta\vec{v}\cdot\hat{s}, \qquad \nu_k \sim \mathcal{N}(0,\ \sigma_1^2 + \sigma_2^2)

であり、EKFで使う観測感度行列(ヤコビアン)は

H=hΔx=[0fccs^]H = \frac{\partial h}{\partial \Delta\vec{x}} = \begin{bmatrix} \vec{0}^{\top} & -\dfrac{f_c}{c}\hat{s}^{\top} \end{bmatrix}

という、相対速度ブロックにのみ視線方向の射影が立つ形になります。ここで重要なのは、差分によってδ\deltaが消えているおかげで、観測雑音νk\nu_kを平均0の白色雑音としてモデル化する仮定が実際によく成り立つことです。もしδ\deltaが残っていれば、フィルタは相関を持つ系統誤差を白色雑音と誤認して共分散を過小評価し、推定値が自信過剰に間違った値へ収束する(フィルタの発散・スミアリング)という、実務で最も恐れられる事態を招きます。差分前処理は、フィルタの数学的仮定を現実に合わせるための前処理でもあるのです。

1成分しかない観測から6次元の相対状態が決まるのは、時間とともに(1) 軌道力学(状態遷移行列Φ\Phi)が速度誤差を位置誤差に伝搬させ、(2) 幾何(視線方向s^\hat{s}や2機の相対配置)が変化してHHの張る方向が回転するためです。周回軌道上のオービタと着陸機なら1周回の間に視線への射影が大きく振れるため、数周回分の差分ドップラーだけで相対軌道が良く決まります。実務ではさらに、光学航法(相手機の撮像)やDDOR型の差分VLBI観測を同じフィルタに統合し、視線方向(差分ドップラー)と視線直交方向(差分VLBI・光学)を相補的に組み合わせます。

実務での使われ方

差分ドップラーの発想は、深宇宙航法の複数の場面で、それぞれ少しずつ違う顔で実用されています。

  • DDORパスにおける遅延変化率観測(ΔDOD): NASA/JPLのDSNとESAのESTRACKが実施するDDOR観測では、同じ2局同時受信データから遅延(DDOR)と併せて差分ドップラー(遅延変化率)も抽出され、軌道決定フィルタの補助観測量として使われてきました。技術的な体系はJPLのThornton & Border Radiometric Tracking Techniques for Deep-Space Navigation にまとめられており、DSNの観測仕様はDSN 810-005ハンドブックに規定されています。
  • 同一ビーム干渉法(Same-Beam Interferometry, SBI): 2機の探査機が地上アンテナの同一ビーム内にあるとき、両機の搬送波位相の差分(実体は積分された差分ドップラー)を2局で取る二重差分により、媒質誤差をほぼ完全に消して2機の相対角度位置をDDOR以上の精度で決める技術です。JPLのFolknerとBorderらは1990年代、金星周回中のマゼランとパイオニア・ヴィーナス・オービタの2機を用いてSBIの実証観測を行い、その後この手法は中国の嫦娥計画(嫦娥3号の着陸機とローバー「玉兎」の相対測位など)でも月面で応用されています。
  • 火星EDL・近接運用の中継ドップラー: 火星探査では、NASAの標準UHF中継無線機Electra(MRO、MAVEN等に搭載、周波数約400 MHz帯)がCCSDS Proximity-1プロトコル(CCSDS 211系勧告)に基づく近接リンクを提供し、通信と同時にリンクのドップラー計測を行います。キュリオシティやパーサヴィアランスの大気圏突入・降下・着陸(EDL)では、オービタが受信した降下機のドップラー時系列が軌道・降下軌跡の再構成に使われました。オービタと着陸機それぞれの地球直接リンクのドップラー、およびオービタ経由の中継ドップラーを組み合わせると、共通誤差を差し引いた相対航法観測量が構成でき、着陸機の位置決定(たとえば火星表面上の着陸点座標の決定)の精度を大きく高めます。
  • 衛星間リンクによるdual one-way測定: 月のGRAIL(Kaバンド)、地球のGRACE/GRACE-FO(K/Kaバンド)は、編隊飛行する2機が互いにOne-wayの位相を測り合い、双方向の測定を組み合わせて両機の発振器誤差を相殺します。これは「共通誤差を差分で消す」原理を機上間リンクに移植したもので、相対速度をμm/sを切る精度で連続測定し、重力場の精密マッピングを可能にしました。
  • 小天体ランデブー運用: はやぶさ2のような小天体ランデブーでは、母機の地球直接リンクのTwo-wayドップラー(トランスポンダ参照)に加え、分離した小型着陸機・ローバー(MINERVA-II、MASCOTなど)との近接リンクの受信周波数が、分離後の相対運動の推定に利用できます。将来の多機編隊による小天体探査やマルチランダー運用では、母機・子機間の差分ドップラーを相対航法フィルタの主観測量とする構成が標準的な設計選択肢になっており、CCSDS Proximity-1系のドップラー計測機能はその共通基盤です。

いずれの応用にも共通するのは、「絶対精度の高い基準を用意する」のではなく「基準の誤差が同相で乗る2つの測定を設計し、差を取る」という設計思想です。高価な基準器を1つ磨き上げるより、誤差が共通になるように観測の構造を仕組むほうが、しばしば桁違いに効くのです。

演習問題

  1. 2局差分ドップラーの感度: 地球からd=1.5×1011d = 1.5\times10^{11} m(1 AU)の探査機を、視線直交基線B=8000B_\perp = 8000 kmの2局でOne-way受信する(fc=8.4f_c = 8.4 GHz)。探査機の視線直交方向速度がv=12v_\perp = 12 m/sのときの差分ドップラーΔfd=(fc/c)(B/d)v\Delta f_d = (f_c/c)(B_\perp/d)\,v_\perpをmHz単位で求めよ。また差分観測量の雑音がσΔf=0.5\sigma_{\Delta f} = 0.5 mHzのとき、vv_\perpの推定精度σv\sigma_{v_\perp}を求めよ。

  2. 共通誤差相殺の定量評価: 同一局で受信する2機のドップラーがfd,i=fd,itrue+δ+ϵif_{d,i} = f_{d,i}^{\text{true}} + \delta + \epsilon_iに従い、地上基準の周波数オフセットに起因するδ\deltaが相対値2×10132\times10^{-13}(Xバンドfc=8.4f_c = 8.4 GHzでδ=1.68\delta = 1.68 mHz)、個別雑音がσϵ=0.1\sigma_\epsilon = 0.1 mHz(各機、独立)とする。(a) 単独チャンネルの実効誤差δ2+σϵ2\sqrt{\delta^2 + \sigma_\epsilon^2}と、差分観測量の誤差2σϵ\sqrt{2}\,\sigma_\epsilonをそれぞれ求めよ。(b) One-way換算(11 mHz \leftrightarrow35.735.7 μm/s)で両者を速度誤差に直し、差分によって系統誤差成分が何分の一になったか評価せよ。

  3. 近接リンクの相対速度: 火星オービタが降下中の着陸機のUHF信号(f=401f = 401 MHz)を受信したところ、名目からのドップラーシフトがΔf=26.8\Delta f = 26.8 Hzであった。One-wayの関係Δf=(f/c)Δvr\Delta f = (f/c)\,\Delta v_rを用いて2機の相対視線速度Δvr\Delta v_rを求めよ。また同じΔvr\Delta v_rをXバンド(8.48.4 GHz)の地球直接リンクで測った場合のドップラーシフトと比較し、周波数が低い近接リンクのドップラー感度について論ぜよ。

  4. 差分設計の考察: (a) 2機がそれぞれ自前のUSOでOne-way送信している場合、差分ドップラーで消える誤差と消えない誤差を、本文の誤差モデルのδ\deltaϵi\epsilon_iへの振り分けを明示して整理せよ。(b) 消えない誤差を相殺するための2つの設計(同一局アップリンクへのコヒーレントロック、クロスリンクによるdual one-way)がそれぞれ何を共通化しているのかを説明せよ。(c) 差分は雑音を2\sqrt{2}倍にする。差分を取らないほうが有利になるのはどのような条件のときか、σδ\sigma_\deltaσϵ\sigma_\epsilonの関係で述べよ。

まとめと次回予告

差分ドップラー航法は、DDORで学んだ「差分で共通系統誤差を打ち消す」という発想を、到達時刻から周波数へ移植した技術でした。誤差モデルfd,i=fd,itrue+δ+ϵif_{d,i} = f_{d,i}^{\text{true}} + \delta + \epsilon_iから出発すると、差分演算は共通誤差δ\deltaをその大きさによらず代数的に厳密に消し、代償として独立雑音を2\sqrt{2}倍にする——この損得勘定はσδσϵ\sigma_\delta \gg \sigma_\epsilonである限り圧倒的に差分有利であり、2地上局構成では探査機発振器誤差を消して角度変化率θ˙\dot\thetaを、2機近接構成では地上・媒質の共通誤差を消して相対視線速度Δvr\Delta v_rを、それぞれ高精度な観測量として取り出せることを見ました。そしてこの差分観測量は、白色雑音の仮定が成り立つきれいな入力として相対航法フィルタに流れ込み、軌道力学と幾何の時間変化を介して6次元の相対状態推定を支えています。

ところで、レンジ・ドップラー・DDOR・差分ドップラーと観測量を積み上げて軌道決定の精度を高めても、その精度は「観測した瞬間」のものに過ぎません。観測を止めて軌道を先へ予報すると、推定誤差は軌道力学に従って時間とともに成長し、方向によっては指数的に膨らんでいきます。次回は、この軌道決定の不確かさの長期伝搬——共分散行列が状態遷移行列を介してどう時間発展し、なぜ進行方向(along-track)の誤差だけが際立って成長するのか——を扱います。今回フィルタの中で天下り的に使った状態遷移行列Φ\Phiが、主役として再登場します。

参考文献

  • C. L. Thornton, J. S. Border, Radiometric Tracking Techniques for Deep-Space Navigation, JPL Deep-Space Communications and Navigation Series, Wiley
  • DSN Telecommunications Link Design Handbook, DSN No. 810-005
  • CCSDS 506.0-B, Delta-DOR Technique
  • CCSDS 211.0-B, Proximity-1 Space Link Protocol
  • W. M. Folkner, J. S. Border, “Orbiter-orbiter and orbiter-lander tracking using same-beam interferometry,” TDA Progress Report 42-109, JPL
  • J. H. Yuen (ed.), Deep Space Telecommunications Systems Engineering, JPL Publication 82-76