変調・符号化#180

カオス拡散通信 — 決定論的カオスが生む非周期拡散符号

PN符号の代わりにロジスティック写像のようなカオス力学系から拡散符号を生成する、研究段階の技術カオス拡散通信を扱う。初期値鋭敏性とリアプノフ指数から系列の予測困難性を定量化し、DSSSのPN符号との生成原理の違いと、有限精度実装・送受信同期という実務上の壁を数式付きで理解する。

前提知識: 直接拡散スペクトラム拡散(DSSS) — 帯域を犠牲にして頑健性を買う

カオス通信拡散スペクトラム非線形力学系ロジスティック写像物理層セキュリティ

この回で学ぶこと

DSSSの回では、データビットを線形フィードバックシフトレジスタ(LFSR) が生成するPN(擬似雑音)符号でXORし、帯域を大きく広げることで処理利得 GpG_p に応じたジャミング耐性と低検出性(LPI)を得る仕組みを学びました。LFSRは、決まった帰還多項式に従ってビットをシフトし続けるだけの、完全に決定論的な回路です。にもかかわらず、生成される系列は雑音とほとんど見分けがつかないほど複雑に見える——これがPN符号の面白さでした。

この回では、同じ「決定論的なのに雑音のように見える系列」という性質を、まったく異なる仕組みから引き出す技術を扱います。カオス拡散通信(chaos-based spread spectrum) です。LFSRのような線形な離散論理回路の代わりに、ロジスティック写像に代表される非線形カオス力学系の軌道を拡散符号として使います。カオス力学系は、初期値のごくわずかな違いが時間とともに指数関数的に増大する「初期値鋭敏性」を持ち、この性質がPN符号とは異なる発想の拡散符号を生み出します。

数式を通じて、カオス系列がなぜ雑音的に見えるのか、その予測困難性はどれくらいの精度で定量化できるのか、そしてPN符号に対してどんな潜在的な利点と、それを上回るほど厄介な実務上の壁があるのかを、正直に見ていきます。結論を先取りすると、カオス拡散通信は現時点では研究段階の技術であり、深宇宙探査機の運用系には採用されていません。この回はその理由も含めて理解することが目標です。

直感的導入: 決定論的なのに予測できない

DSSSのPN符号は、有限個(たとえば LL 段)のレジスタの状態を、決められたルールで次々とシフトしていくものでした。状態空間は有限(2L12^L - 1 通りの非零状態)であり、いずれ必ず同じ状態に戻ってくるので、系列には周期 2L12^L - 1 チップという明確な繰り返しがあります。周期性こそが「PN符号は完全なランダムではなく擬似的なランダムである」という言葉の意味そのものです。

カオス力学系は、これとは異なる「決定論だが予測困難」のあり方を持っています。次の値を決める写像(漸化式)自体は、驚くほど単純です。たとえば本稿で中心的に扱うロジスティック写像は、

xn+1=fr(xn)=rxn(1xn),xn[0,1], r[0,4]x_{n+1} = f_r(x_n) = r\, x_n (1 - x_n), \qquad x_n \in [0,1],\ r \in [0,4]

という一本の二次式にすぎません。rr をある範囲(後述するように r3.57r \approx 3.57 を超えたあたりから)に取ると、この単純な漸化式が生成する軌道 {xn}\{x_n\} は、目視では周期性も規則性も見出せない、複雑で「乱雑」な振る舞いを示します。しかも状態 xnx_n は(理想的には)実数値であり、LFSRのような有限状態集合の中を巡回するのではなく、連続な区間 [0,1][0,1] の中を非周期的にさまよい続けます。

このカオス的な軌道を適当な方法で ±1\pm 1 の2値系列に変換すれば、DSSSのPN符号の代わりに使える「拡散符号」になるのではないか——これがカオス拡散通信の出発点にある発想です。以下、この直感を数式で裏付けていきます。

数式定式化

ロジスティック写像とカオスの発生

ロジスティック写像 fr(x)=rx(1x)f_r(x) = rx(1-x) の振る舞いは、パラメータ rr に応じて劇的に変化します。rr00 から 44 まで増やしていくと、軌道はまず単一の固定点に収束し(r<3r<3)、次に周期2、周期4、周期8……と周期倍分岐を繰り返しながら(いわゆるファイゲンバウムの分岐カスケード)、r3.56995r_\infty \approx 3.56995 という集積点を境に、多くの rr に対して非周期的なカオス軌道が現れます。

r=4r=4 のときは特に扱いやすく、その振る舞いを厳密に解析できます。変数変換 xn=sin2(πθn)x_n = \sin^2(\pi \theta_n) を導入すると、倍角公式より

xn+1=4xn(1xn)=4sin2(πθn)cos2(πθn)=sin2(2πθn)x_{n+1} = 4 x_n(1-x_n) = 4\sin^2(\pi\theta_n)\cos^2(\pi\theta_n) = \sin^2(2\pi\theta_n)

となり、これは θn+1=2θnmod1\theta_{n+1} = 2\theta_n \bmod 1 という**倍角写像(ドラベリング写像、Bernoulliシフト写像)**とちょうど対応します。つまり r=4r=4 のロジスティック写像は、θn\theta_n を2進小数 θn=0.b1b2b3\theta_n = 0.b_1 b_2 b_3 \cdots (各 bi{0,1}b_i \in \{0,1\})で表したとき、

θn+1=0.b2b3b4\theta_{n+1} = 0.b_2 b_3 b_4 \cdots

のように、1回の反復ごとに最上位ビットを1個ずつ捨てていく操作と同値です。この見方は非常に示唆的です。θ0\theta_0 を無限精度で指定するには無限個のビットが必要ですが、そのうち下位のビット(小さな誤差)は反復のたびに上位へ繰り上がってきて、やがて軌道全体を支配するようになります。これが「初期値のわずかな違いが時間とともに増大する」という初期値鋭敏性の、最も具体的な姿です。

リアプノフ指数と初期値鋭敏性の定量化

初期値鋭敏性を定量的に測る量がリアプノフ指数 λ\lambda です。

λ=limn1nk=0n1lnfr(xk),fr(x)=r(12x)\lambda = \lim_{n\to\infty} \frac{1}{n} \sum_{k=0}^{n-1} \ln \left| f_r'(x_k) \right|, \qquad f_r'(x) = r(1-2x)

λ>0\lambda > 0 であることが、軌道がカオス的であることの標準的な定義です。上で見た r=4r=4 の場合、倍角写像 θn+1=2θnmod1\theta_{n+1}=2\theta_n \bmod 1 の微分は常に絶対値 22 の定数なので、

λr=4=ln20.693 [nats/iteration]=1 [bit/iteration]\lambda_{r=4} = \ln 2 \approx 0.693 \ \text{[nats/iteration]} = 1 \ \text{[bit/iteration]}

という厳密な値が得られます。「1反復あたり1ビット」というのは偶然の一致ではなく、まさに上で見た「1反復ごとに2進表現の最上位ビットが1個捨てられる」という構造そのものの数値的表現です。

リアプノフ指数が正であることは、初期値の微小な誤差 δx0\delta x_0

δxnδx0enλ|\delta x_n| \approx |\delta x_0|\, e^{n\lambda}

のように指数関数的に増大することを意味します。これがバタフライ効果の数式的な中身です。具体例で桁数の感覚をつかんでおきましょう。倍精度浮動小数点数(仮数部 b=52b=52 ビット)で初期値を表現しているとすると、初期値の不確かさは高々 δx0252\delta x_0 \sim 2^{-52} 程度です。この誤差が軌道の取り得る範囲(O(1)O(1))まで成長するのにかかる反復回数 nn^\ast (予測限界、predictability horizon)は、λ=ln2\lambda = \ln 2 の場合、

1252enln2=2522nn521 \approx 2^{-52}\, e^{n^\ast \ln 2} = 2^{-52} \cdot 2^{n^\ast} \quad\Longrightarrow\quad n^\ast \approx 52

と求まります。つまり、たとえ初期値をコンピュータの倍精度限界まで正確に知っていたとしても、わずか50数回の反復の後には、その情報はもはや軌道の予測に何の役にも立たなくなります。これは後の「送受信同期」の議論で決定的に効いてくる数値です。

カオス軌道からの拡散符号生成

実数値の軌道 xn[0,1]x_n \in [0,1] を、DSSSと同じ ±1\pm 1 の2値拡散符号 cnc_n に変換するには、しきい値量子化を用います。もっとも単純な方法は、

cn=sgn(xnμ),μ=12c_n = \operatorname{sgn}(x_n - \mu), \qquad \mu = \tfrac{1}{2}

です。r=4r=4 の場合、軌道の定常分布(不変測度)は次のアークサイン分布として厳密に知られています。

ρ(x)=1πx(1x),x(0,1)\rho(x) = \frac{1}{\pi \sqrt{x(1-x)}}, \qquad x \in (0,1)

この分布は x=0,1x=0,1 付近に密度が集中する形をしていますが、x=1/2x=1/2 に関して左右対称であるため、しきい値 μ=1/2\mu = 1/2 を選べば P(xn>1/2)=P(xn<1/2)=1/2P(x_n > 1/2) = P(x_n < 1/2) = 1/2 となり、cn=±1c_n = \pm1 がちょうど等確率で現れる、DSSSのPN符号と同じ「バランスの取れた」2値系列が得られます。得られた cnc_n をチップレート RcR_c でデータビット b(t)b(t) に掛け合わせる拡散・逆拡散の手続き自体は、DSSSの回で導出した処理利得 Gp=Rc/RbG_p = R_c/R_b の式や、逆拡散が c(t)2=1c(t)^2=1 に支えられているという構造をそのまま流用できます。ここを再導出することはしません。カオス拡散通信がPN符号方式と異なるのは、あくまで系列 cnc_n をどう生成するかという一点です。

カオス系列の自己相関特性

拡散符号として有用であるためには、自己相関関数が鋭いピークを持ち、それ以外ではできるだけ低い値を取る必要があるのは、DSSSのPN符号と変わりません。

Rc(k)=(cncˉ)(cn+kcˉ)R_c(k) = \left\langle (c_n - \bar c)(c_{n+k} - \bar c) \right\rangle

カオス系の混合性(mixing property)——時間が経つにつれて、初期分布に関する情報が指数関数的に「忘れ去られる」統計的性質——は、リアプノフ指数が正であることと表裏一体の性質であり、直感的には自己相関が Rc(k)eαk|R_c(k)| \sim e^{-\alpha|k|}(α>0\alpha>0)のように急速に減衰することを示唆します。実際、r=4r=4 のロジスティック写像(前述の変数変換でChebyshev写像 T2T_2 とも同値であることが知られています)については、先行研究(Kohda & Tsuneda, 1997)により、無限精度・定常分布のもとでの自己相関がほぼ理想的な形(k0k\neq0 でほぼゼロ)に近づくことが示されています。

ただし、ここで強調しておくべき重要な点は、この良好な自己相関特性は rr の値に非常に敏感であるということです。ロジスティック写像の分岐図を見ると、r3.57r_\infty \approx 3.57 を超えて「カオス領域」に入った後も、その中には**周期的な窓(periodic window)**が点在しています。有名な例では r3.8284r \approx 3.8284 付近に安定な周期3軌道が現れ、この rr を選んでしまうと、生成される系列は事実上短い周期を持つ極めて予測しやすいものになり、拡散符号としての価値をほとんど失います。つまり、DSSSのPN符号設計が「帰還多項式が原始多項式であるかどうか」という離散数学的な条件に注意深くなければならないのと同様に、カオス拡散符号の設計も「選んだパラメータ rr が真にカオス的で、かつ窓に落ち込んでいないか」を吟味しなければならない、パラメータ依存性の強い問題なのです。

実務での使われ方

PN符号に対する潜在的な利点

カオス拡散符号がしばしば魅力的とされる理由は、主に2点です。

  1. 系列の非周期性と生成パラメータの連続性。 LFSRベースのPN符号は、レジスタ段数 LL を固定すると、系列の周期は高々 2L12^L-1 チップという有限値に定まります。これに対し、カオス力学系の状態空間は(無限精度の理想化のもとでは)連続であり、軌道は理論上決して同じ状態に戻らない非周期系列になります。また初期値 x0x_0 や map のパラメータ rr を連続的に変化させることで、原理上は無数のバリエーションの系列を作り出せます。
  2. 初期値を鍵として使うセキュリティ上の潜在的利点。 上で見た予測限界 nn^\ast の議論が示すように、初期値 x0x_0 をわずかにでも正確に知らない盗聴者は、nn^\ast 回程度の反復の後には軌道の予測が完全に破綻します。これはLFSRの場合と質的に異なる性質です。LFSRでは、たとえレジスタの初期状態を知らなくても、十分な長さの出力ビット列を観測し帰還多項式の次数を知っていれば、線形代数的な手法(Berlekamp–Masseyアルゴリズムなど)で内部状態を効率的に復元できてしまうことが知られています。カオス系の非線形性は、こうした線形的な状態復元攻撃に対する潜在的な頑健性の根拠として、しばしば引き合いに出されます。

この発想に基づき、1990年代から**カオスシフトキーイング(Chaos Shift Keying, CSK)や、送信側が参照用のカオス波形そのものを一緒に送ることで受信側がカオス発生器を再現する必要をなくす差動カオスシフトキーイング(Differential Chaos Shift Keying, DCSK)**といった変調方式が、非線形回路・通信理論の研究コミュニティ(Dedieu, Kennedy, Hasler, Kolumbán, Chua ら)によって提案・研究されてきました。またレーダー分野でも、カオス波形をアンビギュイティ関数(距離・速度分解能特性)の改善に使う「カオスレーダー」の研究が並行して行われてきた歴史があります。

実務上の課題

一方で、カオス拡散通信が研究段階にとどまり続けている理由も、数式の中にすでに現れています。

  • 有限精度実装による理論上の非周期性の喪失。 実際のデジタル回路や計算機は、xnx_n を有限ビット(たとえば固定小数点 bb ビット)で表現せざるを得ません。表現可能な状態は高々 2b2^b 通りの有限集合であり、決定論的な写像をこの有限集合上で反復すれば、鳩の巣原理により軌道は必ずいずれ周期的になります。理論上の「非周期性」は、有限精度実装の瞬間に失われてしまうのです。しかも量子化誤差自体がロジスティック写像の非線形性によって複雑に増幅されるため、実際に得られる周期の長さや統計的性質は、単純な理論解析だけでは予測しにくいという追加の困難もあります。
  • 送受信間の同期という致命的な難しさ。 DSSSの逆拡散が成立するためには、受信機が送信機とビット単位で一致した符号レプリカ c(t)c(t) を持っている必要がありました。LFSRの場合、これは「同じ帰還多項式と初期状態を持つシフトレジスタを、正しいタイミングで走らせ続ける」という、整数・ビット単位の厳密な演算だけで実現できる、比較的御しやすい問題です。ところがカオス力学系の場合、送信側と受信側でわずかでも演算順序・丸め誤差・パラメータの実装差が生じれば(たとえば異なるハードウェアでの浮動小数点演算の丸め方の違いだけでも十分です)、上で計算した予測限界 nn^\ast(倍精度で高々50数反復程度)を境に、両者の軌道は指数関数的に乖離し、逆拡散の相関が完全に崩壊します。この問題を回避するために、送受信間でカオス発生器そのものの状態を能動的に一致させ続ける「カオス同期」の理論(Pecora–Carrollのドライブ・レスポンス同期など)や、そもそも受信側でカオス発生器を再現する必要がないDCSKのような自己参照型の方式が研究されてきましたが、いずれも実装は容易ではありません。
  • 深宇宙リンクとの相性の悪さ。 地上の短距離無線であれば、同期を保つべき時間は高々ミリ秒〜秒のオーダーです。しかし深宇宙探査機との通信では、片道光時間だけで火星でも数分〜20分強、太陽系外縁天体では数時間に達します。この間、送受信双方のカオス発生器を外部からの補正なしに厳密に同期させ続けることは、地上の実験室環境よりもはるかに困難な要求になります。LFSRベースのPN符号であれば、クロックさえ安定していれば理屈の上ではいくらでも長時間ビット精度で同期を保てるのに対し、カオス発生器はその原理上、時間とともに必然的に精度が失われていく性質を抱えているという非対称性があります。
  • 標準化・実運用実績の不在。 以上の理由から、CCSDSの変調・拡散に関する勧告(CCSDS 401.0-Bなど)にカオス拡散通信が規定されたことはなく、NASA・JAXA・ESAいずれの運用中の深宇宙探査機でも、主たる通信方式として採用された例は現時点でありません。カオス拡散通信は、非線形回路理論・通信理論の学術コミュニティにおける活発な研究テーマであり続けていますが、DSSSの回で見たPN符号ベースの拡散通信のような、GPSや軍用衛星通信での実運用実績には遠く及ばない、基礎研究段階の技術として正直に位置づけておく必要があります。

演習問題

  1. ロジスティック写像 r=4r=4 のリアプノフ指数は λ=ln2\lambda = \ln 2 です。単精度浮動小数点数(仮数部 b=23b=23 ビット)で初期値を表現している場合の予測限界 nn^\ast を、本文中の式 12benλ1 \approx 2^{-b} e^{n^\ast \lambda} を使って見積もり、倍精度(b=52b=52、本文で n52n^\ast \approx 52 と求めた)の場合と比較してください。
  2. r=3.9r=3.9x0=0.6x_0 = 0.6 としてロジスティック写像を5回反復した軌道 x1,,x5x_1,\dots,x_5 を計算し、初期値をわずかにずらした x0=0.600001x_0' = 0.600001 から出発した軌道 x1,,x5x_1',\dots,x_5' と比較してください(電卓・数値計算ツール使用可)。両者の差 xnxn|x_n - x_n'| が反復ごとにどう変化するか観察し、本文のバタフライ効果の議論と対応づけてください。
  3. LFSRベースのPN符号は、いったん送受信間で位相同期が取れれば、クロックが安定している限り理屈の上では無期限にビット精度の同期を保てます。これに対し、カオス力学系ベースの拡散符号生成器は、時間とともに必然的に同期精度が失われていきます。この違いが生じる根本的な理由を、両者の状態空間(有限離散 vs. 連続実数)と演算の性質(整数・ビット演算 vs. 浮動小数点演算)の違いに基づいて、自分の言葉で説明してください。
  4. 本文では、深宇宙探査機との通信にカオス拡散通信を適用することが、地上の短距離無線よりもさらに困難である理由として、片道光時間の長さを挙げました。なぜ片道光時間の長さが、カオス発生器の同期維持という問題を悪化させるのか、本文の予測限界 nn^\ast の議論を踏まえて説明してください。

まとめと次回予告

カオス拡散通信は、ロジスティック写像のような単純な非線形力学系が、正のリアプノフ指数(r=4r=4 の場合 λ=ln2\lambda=\ln 2)に支えられた初期値鋭敏性によって、決定論的でありながら予測困難な軌道を生み出すという性質を、DSSSのPN符号に代わる拡散符号の生成原理として使う技術でした。LFSRの有限状態・周期的な系列とは対照的に、カオス軌道は(理想化のもとでは)非周期であり、初期値を鍵として使うことで盗聴者にとっての予測困難性を高められるという潜在的な利点がある一方、有限精度実装による理論上の非周期性の喪失、そして何より送受信間でカオス発生器を正確に同期させ続けることの難しさという、実務上の高い壁が存在することを見ました。とりわけ深宇宙リンクの長大な片道光時間は、この同期問題をさらに難しくする要因であり、現時点でカオス拡散通信は基礎研究段階の技術にとどまっています。

この回で、PCM/PSK/PMの回から続けてきた「変調・符号化」カテゴリはひとまず一区切りです。次回からは測距・追跡のカテゴリに戻り、新しいトピックとして、探査機の軌道に生じたごくわずかな加速度の謎であるパイオニア・アノマリーと、それを解明する手がかりとなった精密ドップラー追跡の技術を扱う予定です。搬送波の位相をどこまで精密に追跡すれば、太陽系スケールの力学に潜む未知の効果を検出できるのか、という新しい問いに軽く触れていきます。

参考文献

  • R. M. May, “Simple mathematical models with very complicated dynamics,” Nature, vol. 261, pp. 459–467, 1976.
  • H. Dedieu, M. P. Kennedy, M. Hasler, “Chaos shift keying: Modulation and demodulation of a chaotic carrier using self-synchronizing Chua’s circuits,” IEEE Transactions on Circuits and Systems II, vol. 40, no. 10, pp. 634–642, 1993.
  • G. Kolumbán, M. P. Kennedy, L. O. Chua, “The role of synchronization in digital communications using chaos—Part I: Fundamentals of digital communications,” IEEE Transactions on Circuits and Systems I, vol. 44, no. 10, pp. 927–936, 1997.
  • T. Kohda, A. Tsuneda, “Statistics of chaotic binary sequences,” IEEE Transactions on Information Theory, vol. 43, no. 1, pp. 104–112, 1997.
  • G. Heidari-Bateni, C. D. McGillem, “A chaotic direct-sequence spread-spectrum communication system,” IEEE Transactions on Communications, vol. 42, no. 2/3/4, pp. 1524–1527, 1994.
  • R. L. Peterson, R. E. Ziemer, D. E. Borth, Introduction to Spread Spectrum Communications, Prentice Hall.
  • CCSDS 401.0-B, Radio Frequency and Modulation Systems, Part 1: Earth Stations and Spacecraft