変調・符号化#78
非コヒーレント検波 — 搬送波位相が分からないとき、どう判定するか
検出理論の最尤判定もCostasループの復調も、実は「受信機が搬送波位相を知っている」ことを暗黙の前提にしていた。PLLロックの時間すら惜しいバースト通信で位相未知のまま判定する非コヒーレント検波を、レイリー分布・ライス分布による包絡線検波の統計的導出と、コヒーレント方式との3〜4dBの性能差の定量評価とともに理解する。
前提知識: 検出理論と最尤推定 — 「一番近い信号点を選ぶ」が最適である理由
この回で学ぶこと
検出理論の回では、受信信号 から送信された信号点 を推定する最適な判定則を、確率論から厳密に導きました。しかしそこには、ほとんど注釈なしに置かれていた1つの大前提があります。尤度関数
を書き下すとき、私たちは受信信号 を「送信された信号点 に、平均ゼロの雑音 が加わったもの」として扱いました。これは、受信機がすでに搬送波の位相を正確に知っていることを意味します。位相が分からなければ、 と を同じ座標系で比較すること自体ができません。実際、PLLの回やCostasループの回で見た仕組みは、まさにこの「搬送波位相を推定してロックし続ける」ための回路でした。この位相が既知(あるいは十分正確に推定できる)という前提のもとで行う検波を、**コヒーレント検波(coherent detection)**と呼びます。ここまでの回はすべて、コヒーレント検波の枠組みの中の話だったのです。
しかし現実には、この前提が崩れる、あるいはあえて崩したい場面があります。PLLが搬送波を捕捉してロックするには、ループ帯域幅 に応じた時間がかかります。送信するデータがそのロック時間に見合わないほど短いバースト通信であったり、そもそもPLL/Costasループのような複雑な位相追尾回路を受信機に載せる余裕がなかったりすると、コヒーレント検波は選択肢から外れます。この回では、搬送波位相が未知のまま判定を行う**非コヒーレント検波(non-coherent detection)**を扱います。ゴールは4つです。
- なぜコヒーレント検波が使えない、あるいは使いたくない場面があるのかを、実務的な動機として整理する。
- 2値FSK(周波数偏移変調)の非コヒーレント検波(包絡線検波)を例に、位相未知のまま振幅だけで判定する仕組みを、レイリー分布・ライス分布を使って統計的に導出する。
- 非コヒーレント検波のビット誤り率が、コヒーレント検波のQ関数型の式とは異なる、指数関数だけの閉じた式になることを示し、その性能差を定量的に評価する。
- コヒーレントと非コヒーレントの中間に位置する**DPSK(差動位相偏移変調)**の考え方を、Costasループの回で扱った差動符号化と接続して理解する。
「位相が分かっていることを前提にしない検波」という、これまでとは根本的に異なる土俵に立つことで、検出理論の適用範囲がぐっと広がります。
直感的導入 — 位相を知らなくても振幅は測れる
コヒーレント検波の受信機は、いわば「送信側と完全に同期した物差し」を持っています。BPSKであれば、受信機は「送信された搬送波の位相はこの向きのはずだ」という基準軸をPLLで正確に再現し、受信信号をその基準軸に投影して符号を見るだけでよかったわけです。この基準軸がなければ、 と を区別する「向き」そのものが定義できません。
ではPLLをロックする時間もリソースも無い受信機は、何を手がかりに判定すればよいのでしょうか。ここで発想を転換します。位相は分からなくても、信号の「強さ」(振幅・エンベロープ)は位相に依存せず測れる、という事実を使うのです。
具体的に2値FSK(周波数偏移変調)を考えましょう。送信機はビット0とビット1を、周波数の異なる2つのトーン 、 のどちらかを送ることで表します。受信機には、周波数 付近と 付近にそれぞれ帯域を絞ったフィルタ(あるいは整合フィルタ)を用意しておきます。送信搬送波の位相が受信機にとって未知であっても、「 側のフィルタの出力の方が 側のフィルタの出力より強い電力を持っていれば、送られたのはビット1だろう」という判定は、位相の情報を一切使わずに下せます。これが**包絡線検波(envelope detection)**の基本アイデアです。位相という「向き」の情報を捨てる代わりに、「大きさ」の情報だけで戦う検波方式、それが非コヒーレント検波です。
もちろん、情報を一部捨てているのですから、タダではありません。この回の後半で見るように、非コヒーレント検波は同じ送信電力に対してコヒーレント検波よりも誤り率が高くなります。この「性能の劣化」と「受信機の簡素化・即応性」のトレードオフが、非コヒーレント検波を選ぶかどうかの実務的な判断基準になります。
数式定式化 1 — 2値FSKの信号モデルと直交検波器
送信機がビット に応じて周波数 または のトーンを、振幅 、持続時間 で送信するとします。受信信号にはさらに未知の位相 が加わり(搬送波位相がロックされていないため)、加法性白色ガウス雑音 が重なります。ビット1()が送られた場合、
は受信機にとって未知で、 上で一様分布すると仮定します(これがコヒーレント検波との決定的な違いです。コヒーレント検波では は既知、あるいはPLLの出力として推定済みでした)。
受信機は各トーン候補 () について、位相 と位相 (すなわちI相・Q相)の2本の基準波形との相関を取ります。
トーン に着目したとき、送信搬送波の未知位相 のために、 と はそれぞれ次のような形になります(積分区間で直交性が成り立つよう の間隔が十分離れているとします)。
は独立に分散 のガウス雑音です。ここでエンベロープ(包絡線)、すなわちI相・Q相出力の大きさを
と定義します。この が、非コヒーレント検波の判定に使う統計量です。 がどんな値であっても なので、 の値は未知の位相 に依存しません。これが「位相を知らなくても測れる量」の正体です。受信機は と を比較し、大きい方に対応するビットを選びます。
数式定式化 2 — レイリー分布とライス分布による統計的導出
判定則 が誤り率をどう決めるかを見るには、 の確率分布が必要です。これは信号成分が乗っているかどうかで形が変わる、この回の核心部分です。
トーンが送信されていない側( だけの場合)。 信号成分がゼロなので、 はともに平均ゼロ、分散 の独立ガウス確率変数です。このとき は**レイリー分布(Rayleigh distribution)**に従うことが知られています。
これは2次元ガウス分布を極座標に変換したときの動径方向の周辺分布で、 という変数変換のヤコビアンが であることと、位相 を から まで積分して消去することから導けます。
トーンが送信されている側(信号成分 が乗っている場合)。 このときは 、 となり、 の分布の中心が原点から距離 だけずれたガウス分布になります。この場合の は**ライス分布(Rice distribution, Rician distribution)**に従います。
ここで は0次の第一種変形ベッセル関数です。この式は、未知の位相 を一様分布として周辺化した結果として現れます。
の積分を実行すると、 というベッセル関数の積分表示がちょうど現れ、上のライス分布の式に一致します。直感的に言えば、未知の位相 の不確かさそのものが、ベッセル関数 という形で分布に畳み込まれているのがライス分布です。(信号がない極限)では となり、ライス分布はレイリー分布に一致することも確認できます。
まとめると、2値FSKの非コヒーレント検波では次のようになります。
- 送信されなかった側のトーン出力 : レイリー分布(雑音のみ)
- 送信された側のトーン出力 : ライス分布(信号+雑音)
判定則は「 と を比べて大きい方を選ぶ」なので、誤りが起きるのは、雑音のいたずらで となってしまう場合です。
数式定式化 3 — ビット誤り率の導出と3〜4dBのコヒーレント損失
上記の2つの分布から誤り率 を計算すると(導出はレイリー分布とライス分布の同時確率密度を2重積分する形になり、Proakisなどの標準的な教科書に詳しいので、ここでは結果を示します)、2値非コヒーレントFSKのビット誤り率は驚くほど簡潔な閉じた式になります。
指数関数だけのシンプルな式で、Q関数のような誤差関数の積分を含みません。これは非コヒーレント検波に特有の性質で、位相を周辺化する操作がベッセル関数を経由して最終的にきれいな指数関数に帰着することの帰結です。比較のため、これまで扱ってきたコヒーレント検波の誤り率を並べます。
同じ2値FSKという変調方式でも、コヒーレント検波(位相既知、相関器で最尤判定)と非コヒーレント検波(位相未知、包絡線検波)とでは、誤り率の関数形そのものが異なることに注目してください。
性能差の定量評価。 高SNR領域( が大きい領域)でこの2つを比較すると、非コヒーレントFSKがコヒーレントFSKに追いつくために必要な追加の 、いわゆる**コヒーレント損失(non-coherent penalty)**を見積もることができます。 という高SNR近似を使うと、コヒーレントFSKは
となり、両者はともに指数部が という同じ減衰の速さを持ちます。つまり漸近的な減衰の傾きはほぼ同じで、違いは指数の前に掛かる多項式的な係数だけです。しかし実務上より意味のある比較は、同じビット誤り率を達成するために必要な の差です。たとえば を目標とすると、
つまり同じビット誤り率 を達成するのに、非コヒーレントFSKはコヒーレントFSKよりおよそ 3.7 dB 多くの送信電力を必要とします。さらにコヒーレントBPSK( dB で )と比べると、非コヒーレントFSKは4dBに近い、あるいはそれ以上の劣化になることもあります。この**「非コヒーレント方式は同じ誤り率を得るのにおおよそ3〜4dB多く電力を要求する」**という経験則は、深宇宙リンクのように1dBの電力が貴重なシステムでは決して無視できない差です。この差の物理的な意味は、非コヒーレント検波が信号の位相情報を一切使わずに振幅情報だけで判定しているため、コヒーレント検波が使っている情報の一部を捨てていることの直接的な代償です。
数式定式化 4 — DPSK: コヒーレントと非コヒーレントの中間
ここまで見た非コヒーレントFSKは、位相情報を完全に捨てる方式でした。しかしBPSKのように位相そのものにデータを乗せる変調方式では、「位相を知らなくても、隣り合うシンボル間の位相の差分なら測れる」という、もう1つの中間的な戦略があります。これが**DPSK(Differential PSK、差動位相偏移変調)**です。
Costasループの回では、の位相アンビギュイティを解消する手段として差動符号化を扱いました。送信ビット を、絶対位相ではなく前のシンボルとの位相遷移として符号化する規則
がそれです。DPSKはこの差動符号化を、コヒーレント検波(PLL/Costasループによる絶対位相の再生)と組み合わせるのではなく、受信機側でも位相を絶対的に再生せず、隣り合う2シンボル間の位相差だけを直接比較するという検波方式まで含めて設計したものです。
具体的には、受信機は現在のシンボル区間の受信位相 と、1つ前のシンボル区間の受信位相 の相関を取ります。
未知の搬送波位相 は 、 の両方に共通に乗っているため、積 を取ると が(近似的に)キャンセルします。つまりPLLで を明示的に推定する代わりに、「1シンボル前の自分自身」を位相の基準として使うわけです。これは、絶対位相を知る必要がないという点で非コヒーレント的でありながら、位相情報(隣接シンボル間の差分)を捨てずに使っているという点でコヒーレント的でもある、文字通り両者の中間に位置する方式です。
DPSKのビット誤り率は
という、これもまた指数関数だけの閉じた式になります。コヒーレントBPSKの と比べると、DPSKの劣化は高SNR領域でおよそ1〜2dB程度にとどまり、非コヒーレントFSKの3〜4dBよりずっと小さくて済みます。これは、DPSKが隣接シンボル間の位相相関という追加情報を利用している分、非コヒーレントFSKより多くの情報を使っているためです。ただし1シンボル前の判定を基準にするため、雑音による誤りが2シンボル連続で伝播しやすいという特有の弱点も持ちます(1回の雑音の乱れが、現在のシンボルとの比較にも、次のシンボルとの比較にも影響するため)。
実務での使われ方
深宇宙通信では原則として厳密なコヒーレント検波が使われる。 NASA/JPLのDeep Space Network(DSN)やESAのESTRACKが運用する深宇宙探査機リンクでは、PLLやCostasループによる厳密なコヒーレント検波が標準です。理由は明快で、深宇宙リンクは往復で数十分にもなる光速遅延と、受信電力が W を下回ることも珍しくない極端なリンクバジェットの制約下にあるため、わずか3〜4dBの電力損失も許容できないからです。しかも探査機は一度打ち上げれば数年〜数十年にわたって運用され続けるため、受信機の複雑さ(PLL回路の実装)よりも電力効率が優先されます。加えて、ドップラー計測による軌道決定にはコヒーレントな搬送波追尾そのものが不可欠であり、これは非コヒーレント検波では原理的に得られない副産物でもあります。CCSDS 131.0-Bなどの深宇宙テレメトリ標準がコヒーレント検波(あるいはDPSK程度の中間方式)を前提に規定されているのは、この電力効率最優先の設計思想の表れです。
近距離・低コストリンクでは非コヒーレント方式が好まれる場面がある。 一方で、次のような場面では非コヒーレント検波、あるいはDPSKが積極的に選ばれます。
- テレメトリビーコンや緊急信号。 セーフモード通信のように、探査機の異常時に「生きているか」「ごく限られた状態情報」を極めて簡素な受信機でも確実に拾いたい場面では、PLLロックの手間を省ける非コヒーレントFSKが好まれることがあります。
- 極めて短いバースト通信。 地上の民生無線やIoT機器、あるいは低軌道衛星の短時間パス通信のように、PLLが定常状態にロックし切る前に通信が終わってしまうようなバーストでは、そもそもコヒーレント検波の前提(位相の安定した追尾)が成立しません。
- 受信機コストと消費電力の制約。 民生のBluetooth Low EnergyやLoRaの一部モードなど、周波数偏移変調(FSK/GFSK)を非コヒーレントに復調する簡易受信機は、PLL/Costasループを実装するコストや消費電力を避けたい低価格機器で広く使われています。
- DPSKの実用例。 ISM帯の無線モデムや一部の衛星通信端末では、コヒーレント検波よりわずかに劣化するだけで済み、かつPLLの位相アンビギュイティ問題(Costasループの回で見た問題)を原理的に回避できるDPSKが選ばれることがあります。
つまり非コヒーレント検波とDPSKは「性能で劣る劣った方式」ではなく、リンクバジェットに余裕があり、かつ受信機の単純さや即応性を優先したい状況で合理的な設計選択として使われている、というのが実務上の位置づけです。
演習問題
- レイリー分布の確率密度関数 が正しく規格化されている(全区間で積分すると1になる)ことを確認してください。またこの分布の平均値 が になることを、ガウス積分の公式 を使って示してください。
- ライス分布 において、信号成分 の極限でレイリー分布に一致することを、 を使って示してください。またこの極限が物理的に何を意味するか(FSKのどちらのトーンにも該当しうる状況として)説明してください。
- 非コヒーレントFSKのビット誤り率 とコヒーレントBPSKの について、目標誤り率 を達成するために必要な (dB表示)をそれぞれ求め、両者の差(コヒーレント損失、単位dB)を計算してください( を使ってよい)。この差が本文中のでの結果とどう変わるか、あるいは変わらないかを議論してください。
- DPSKのビット誤り率 は非コヒーレントFSKの と比べて指数部の分母が異なります( 対 )。この違いがもたらす性能差を、 dB のときの具体的な数値( の値)で比較し、DPSKがなぜ非コヒーレントFSKより一貫して優れているのかを、両方式が使っている情報量の違い(隣接シンボル間の位相相関を使うか、振幅だけを使うか)の観点から説明してください。
まとめと次回予告
この回では、検出理論の回以来ずっと暗黙の前提としてきた「搬送波位相が既知である」という仮定をあえて外し、非コヒーレント検波という別の土俵に踏み込みました。要点は次の3つです。
- 位相未知のもとでは、受信機は信号の**振幅(エンベロープ)**だけを手がかりに判定するしかない。2値FSKの包絡線検波では、雑音のみの出力がレイリー分布、信号+雑音の出力がライス分布に従うことを使って誤り率が導ける。
- 非コヒーレントFSKのビット誤り率は というQ関数を含まない指数関数の閉じた式になり、コヒーレント検波に比べて同じ誤り率を得るのにおよそ3〜4dB多くの電力を要する。
- DPSKは、絶対位相ではなく隣接シンボル間の位相差を使うことで、コヒーレント検波と非コヒーレント検波の中間の性能(コヒーレント損失1〜2dB程度)を実現する。深宇宙リンクでは電力効率が最優先されるため厳密なコヒーレント検波が標準だが、近距離・低コスト・バースト通信では非コヒーレント方式やDPSKが合理的に選ばれる。
ここまでの議論では、 という量を「既知の設計パラメータ」として扱ってきました。しかし実際のリンクでは、受信電力も雑音密度も時間とともに変動し、受信機は そのものを観測データから推定しなければなりません。次回は、この 推定の考え方と、推定結果に応じて変調方式や符号化率を動的に切り替えるリンク適応の基本的な考え方に軽く触れます。
参考文献
- J. G. Proakis, M. Salehi, Digital Communications, 5th ed., McGraw-Hill
- H. L. Van Trees, Detection, Estimation, and Modulation Theory, Part I, Wiley
- M. K. Simon, S. M. Hinedi, W. C. Lindsey, Digital Communication Techniques: Signal Design and Detection, Prentice Hall (JPL Deep Space Communications and Navigation Series)
- S. Haykin, Communication Systems, 5th ed., Wiley
- CCSDS 131.0-B, TM Synchronization and Channel Coding
- DSN Telecommunications Link Design Handbook, DSN No. 810-005